二日ほど前にFacebookで。シーシェパードの蛮行記事を見つけ、それをシェアした。
シーシェパードが太地町のイルカ漁の阻止を口実に、蛮行を繰り返しているわけだが、少なくても彼らは自分たちが間違ったことをしているとは思っていない。
私はよく「常識」と言う言葉を使うが、常識とは万人に共通するものなどなく、それはある「共通項」を持った人々で「共有」されているに過ぎない。
にもかかわらず、多くの人は自分の常識は、万人共通だと誤解している。
もっと突き詰めれば、その人個人にとっての「常識」でしかないのだが、その裏には「正義」と言う言葉が隠れていたりする。
そう、多くの人は「正義感」を持っているはず・・・
自分は間違っていない、正しいのだと自負するから、それを行動に起こす。
偉そうなことを言う私も、正義感は人一倍強い。
世の中が間違っているから、私は断固それを正す・・・・
そんな気持ちが一杯なのだが、それがたまに間違いを犯す。
度が過ぎるとか、偏ることでその間違いをおこすと言うことに、最近気が付いた。
釈迦が「中庸」と言う言葉を使うのは、そういう偏りを排し、中間がちょうどいいということらしい・・・
このことは、一人一人が気を付けなければいけないことだと思う。
(資)文化財復元センター おおくま
久しぶりにシスター鈴木秀子の本を3冊読んでみた。
元々私の守護霊に導かれ、数人の人々の存在を知ったのが半年ほど前の話。
それぞれに私が学ぶべきものを持った人々であり、またそれらは「宗教」の枠を超えた「霊的レベル」の高い人々であったが、このシスター鈴木秀子さんからは、特に多くのことを学んだ。
先日「無心」を学ぶ中で、神がもし櫂も帆もない小舟で大海に出ろと言えば、何の迷いもなく船出する、それが「無心」の例えだと鈴木大拙の本に有ったが、頭では理解できても、いざその覚悟を決めたつもりでも、実は「何をすべきか?」がイマイチ解らない。
「無」とは何か? 何もないから無なのだが、しかしその「無」と言う状態が正直解らない・・・
何も考えない、何も行動しない・・・・
だけど、努力家の私にはそれ以上苦痛なことはない。
そこでいろいろと考えたのだが、一番「安らぎ」を覚える方法として、選んだのが鈴木秀子の著書。
彼女の文章には「愛」がある。
「労わり」が有る。
3冊読んで、もう一度それを再確認したのだが、その3冊目に「神は人々を何処へ導くか」を読んでいる最中だが、彼女は8年間に及ぶ「沈黙の行」を体験したカトリックのシスターであり、その彼女から「神」と言う存在について多くを学んだのだが、その本の中に「ブラザーサン・シスタームーン」と「親分はイエス様」と言う映画の話が出てきた。
どうも、この人たちが、実在の人々らしい・・・
何を信じるかではなく、信じるからそこに神がある。
(資)文化財復元センター おおくま
私は自分で言うのもなんだが、「完全主義者」らしい・・・
きっちりしないと気が済まないし、努力しないと気が済まない。
物事はできるだけ積極的に受け取るように心がけているし、試練を受けても「ナニクソッ!!」と頑張るだけの、強い精神を持っている。
それは確かに並みではなく、「ハガネ」のごとき強さだと思う。
そんな性格だから、どうしても「精神的弱者」の気持ちが理解できない。
落ちこぼれ・登校拒否・自閉症・・・・・そんな人たちの気持ちが解らないし、私にすれば「努力が足らん・・・」と思ってしまうのだが、私の離婚の理由の一つに「性格の不一致」というモノがある。
私は人は経験を活かして生長するものだと言う考え方だから、何をやっても、1度目よりは2度目、2度目よりは3度目とだんだん慣れて、短時間で処理出来たり、上達するのが当たり前と考える私と、何をさせても人の2倍はおろか、3倍の時間がかかる。
また、何度繰り返しても、最初から同じことを繰り返す・・・
そんな女房に対して、最初は優しく言って聞かすが、それでも直らない・・・
何度も何度も、同じことを繰り返すものだから、こちらの言い方もだんだんきつくなった。
そして、最後には怒ってしまうのだが、女房はそれでも直さず、最後には「貝」になった。