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再び「阿弥陀堂だより」αビデオ
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先日、ネット配信のαビデオに入った。
 
とはいっても、まだ1か月間の無料期間であるが、その最初に選んだものが「阿弥陀堂だより」だった。
 
前回も書いたが、この作品、一度テレビで見ている。
なんかゆったりと流れるシーンに癒されたのだが、その時画面を飛び交う小さな虫が邪魔だと思ったが、秋の風景の中で、逆光気味に飛び交うトンボの姿を見て、意識的に入れられていたことに気が付いた。
 
先日も書いたが、この作品において「あるがままの自然」を余すところなく映し出し、そこにこの主人公の夫婦が、ゆったりとした「時」を過ごし、精神的に病んでいた奥さんが、少しずつ回復していく姿が描かれている。
 
 
実は先日、この作品をどうしても見てほしい人に、AmazonからDVDを送った。
 
その人はボランティアに生きがいを感じている、心優しい人である。
 
イマドキ、自分のことより、他人の事に一生懸命頑張る、私が学ぶべきものをいっぱい持った人であるが・・・・
 
しかし、一つだけ勘違いしている面が有る。
 
 
それは「自分のこと」を後回しにして、忙しい思いで頑張っているのだが、それは一見すばらしいことのように思える。
 
私利私欲もなく、他人のために尽くすのは、我々人間の判断基準から言うと、「美徳」とされる。
 
 
ところが・・・・
 

それには大きな落とし穴がある。
それは、その他人のために頑張れる「エネルギー」は、無限に湧いてくるものではない。
 
 
私も経験したのだが、十数年前に離婚後数人の人と付き合った後、ちょうど七五三の時期に、神社の境内で、風の音、鳥の声を聞きながら、のんびりとした時間を過ごしていた時、どういうわけか「雅楽」を無性に聴きたくなった
 
とは言っても、私は仕事柄、結婚式の写真を撮ることが有るのだが、その式場では必ず雅楽が流れる。
 
でも、私はそれがまるで音程が外れた「」としか聴こえず、なんだか「背中がこそばゆく」なる。
だから、あえて、雅楽を聴きたいとは思わなかったのだが、それがその時、無性に恋しく思えた。
 
 
で、「東技秀樹」のCDを買って帰ったのだが、私はその時彼の音楽が「雅楽」だと思っていたのだが、どうも「ヒーリングミュージック」というモノらしい・・・・
 
 
その日スタジオで聴きながら仕事をしていると、どういうわけか「涙が溢れてきた」。
 
その理由は、本来はそんなゆったりとしたテンポの曲は苦手なのに、その時に限って「心地よい」と感じていた。
 
そして、そのテンポが、別れた女房の生活テンポと同じであることに気が付いた。
私の別れた女房は、優しくて、思いやりがあり、美人であり、今でいう「癒し系」の典型であったが、私は彼女の良い面をいつの間にか「当たり前」のこととして受け取るようになってしまい、彼女の「悪い面」ばかりに目が行き、それを何とか直そうとしていた。
 
 
つまり、物事の判断は、相手の責任ではなく、自分の「受け取り方」で決まると言う事に「気づき」を与えられたのだが、その時私の「エネルギー」はすでに放電しきっていた。
 
 
そう、その事について、この作品の中にも出てくるが、優秀な医者である主人公の奥さんは、自分の中から「」が抜けたと感じたその後から、「」が病んできたことに気が付いた。
 
そう・・・・
他人のために尽くすことは、確かに美徳ではあるが、そのための「」をまず「自分自身」の中に「養わなければ」それは長続きしない。
 
私はあの時、その東技秀樹の音楽を、1日中、寝ても覚めてもずっと流し続けた。
 
半年ほどすると、砂地に水が滲みこむように、少しずつ自分の中に「活力」が湧いてきたことに気が付いた。
 
それまで、私は好きな事や仕事のために一生懸命努力するが、「余暇」や「遊び」の時間は、無駄だと考えていたが、実は好きな事や仕事は、「エネルギーの放出」だけで、逆に無駄と思える時間を過ごすことは「エネルギーの充電」のための時間であることに気が付いた。
 
 
 
そのDVDを送った人も、他人のためのボランティアは実は「エネルギーの放出」であり、それで決して「エネルギーの充電」はできない事に気づくべきである。
 
その人は、子供時代に、親から愛情を注がれていないらしく、それがずっと「心のしこり」として残っている。
 
俗にいう「インナーチャイルド」というやつだが、それを癒してあげない限り、心の病は解決しない。
ところがその人は、忙しさにかまけて、何度言ってもそれを後回しとしてきた。
 
 
また、普段は前向きな性格を「装って」いるが、実はとても「マイナス思考」の部分を持っている。
つまり、「物事を悪く」解釈する面が有り、一度それに落ち込むと、なかなか抜けられなくなる。
 
 
だけど、それって実は「心の持ちよう」だし、自分の「受け取り方」の問題でしかない・・・・
 
 
スピリチュアル系の考え方から言うと、他人は絶対に変えられないし、自分を取り巻く環境も実は「自分の心」の反映でしかない。
つまり、「自分を変える」ことが、唯一「自分を取り巻く環境」を変える有効な手段である。
 
自分の考え方、受け取り方を変えれば、物事の価値は180度変わる・・・
 
この作品の夫婦はそれを教えてくれるのだが、旦那はそんな病んだ奥さんを追い詰めることなく、優しく見守る。
私はどうしても相手を追い込む性格だから、それを意識しないと私自身も変われない。
 
また奥さんは、自分の心が病んでいると言う「自覚」が有るから、それに背を向けることなく、ゆっくりと、力まず「自らの力」で自分自身を癒し、無理をしない・・・
 
でも、こんな自然の中で「ゆっくりと時間を過ごす」事により、自分自身の心が癒され、そして村の医療の支えとなろうとしている。
 
 
私が送った人も、自分の取り巻く環境が、あまりにも忙しく、自分のことを後回しにしているのだが、実は先ほども言ったように、その「忙しさ」は、実は「自分が創りだしている」ということに気が付かない・・・・
 
 
これって、悪循環で、堂々巡りであり、自分の意識が創りだした「忙しさ」は、また「引き寄せの法則」により、さらに忙しさを引き寄せている。
 
他人の事に頑張りたければ、先ず「自分を大切」にすること。
それって、決して「我欲」ではない。
 
自分に優しくできないものは、他人にも本当は優しくできないということに、気付いてほしいと思う。
 
(資)文化財復元センター  おおくま
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