私が高千穂へ行くきっかけは、地元である枚方の「片埜神社」で不思議な話を聞いたことをはじまりとする。
地元のその神社でよく見かける人のよさそうなおじいさんが、神社の奥さんに不思議な話をしていた。
そのおじいさんをよくその神社で見かけるのは、おじいさんが寝ていると枕元に神が立ったという。
その神は「」高千穂へ行け」と告げたらしく、そのおじいさんは知人に連れられ高千穂神社に行くと、白髪白ひげの老人が近づいてきて「3か月前から待っていました」と告げた。
そしてその老人は、その枚方のおじいさんに向かい「老人のためのユートピアを作れ」と神が言っているという。
実はそのあとに話が続くのだが、そこをカットすると、要するにそのおじいさんに地元の片埜神社や、長野の諏訪大社、福岡の宗像大社、奈良の大神神社へ参れば、神が力を貸してくれると言われたという。
それを又聞きして、私も出かけるようになった。
そんなきっかけで、宗像大社へ来たときは必ず高千穂へも寄る。
その高千穂神社のすぐ近くに「ニニギ」を奉ったくるふし神社があり、いつしかそこにも寄るようになった。
ニニギはある霊能者に言わせると、私の前世と深いかかわりがあるらしく、実際に一度行ったときに、帰りに左くるぶしが大きく腫れたことがある。
そんなかかわりの深い神社である。
私は福岡の甘木で生まれ、小学1年の時に大阪へ来た。
以後半世紀・・・・
その間一度も田舎には帰らなかった。
帰ったところで誰もいないのだが、しかしそれまで望郷の念など一度も起こさなかった。
ところが数年前に、もう一度この目で見てみたいと探したことがある。
ちょうど近くに歴史資料館があり、そこの職員が親切に探してくれ、近くまで送ってくれた。
その時覚えていたのは近くに小さな神社?があったこと。
それをいくら探してもわからなかったが、結局たどり着くと、そこはお稲荷さんだった。
そこを再度訪れ、今度は赤外線で写真を撮ってきた。
幼稚園の時、私はその路地から飛び出し、バイクに曳かれた。
実は最近ある人とメールのやり取りをしていて、その人は2歳の時に溺れかけた記憶があるという。
その話を聞き、ふと私も気が付いた。
家から、お稲荷さんの横の路地を走って抜け、バイクとぶつかったのだが、相手はバイクで豆腐を売り歩く人だったらしい・・・
と、これなら、普通のどこにでもある交通事故の話なのだが、実はその豆腐屋さんは、寺の住職の息子だったらしく、退院してから母に連れられ挨拶に行った。
で、ふと気が付いたというのは、私は子供のころよくそのお稲荷さんで遊んだ。
横の塀をよじ登り、飛び降りたりしていた。
そこで事故にあい、相手は寺の関係者??
これって、どう考えても偶然ではないことに気が付いた。
たぶん、私の不思議体験はすでにこの時にははじまっていたものと思う。
なぜなら、先ほどの2歳で溺れた記憶といえば、「臨死体験」を意味する。
私もたぶん事故の時に「臨死体験」していたのではないかと思う。
50年ほど前に亡くなっている高橋信二も、子供のころに何度も心臓が止まるという奇病に悩まされ、シスター鈴木秀子も、若いころに泊まった教会の二階の階段から落ち、死にかけてから、人を癒す力を授かり、春日大社の宮司を務めた葉室さんも、若いときに肺結核で吐血し死にかけている。
すべて「臨死体験」をしていることになる。
この臨死体験と霊的な力は因果関係があるのかもしれない。
先日、この異様な風景に多くの反応が合った。
確かに見慣れない風景であり、人目を引くのは確かだが、ただ・・・・
facebookの伝染病的反応だと思う。
そして、前回は昼間の風景をアップした。
実はその前日に宗像大社の夜の風景を撮った。
本宮の門や二ノ宮・三ノ宮は、夜なのにちゃんと写っている。
実は私は仕事で文化財を赤外線や紫外線で撮影する。
すると目に見えない情報が写っていたりする。
つまり、人間は「自分の目に映るもの」あるいは「自分の目で確かめたもの」は絶対であり、間違いなく「存 在する」と断言する。
しかし、聞いたことはあっても見たことが無いものには不信感を抱いたり、最初から信じなかったりする。
しかし、人間の目に映るものは実は「存在するもの」のごく一部でしかない。
つまり人間の目は「虹の色の七色」の範囲、つまり400nm~700nmの範囲しか感じない。
もっと言うと、テレビや携帯電話の電波だって、目の前を通過するのに何も感じない。 春日大社の宮司を勤められた葉室さんは著書の中で、「この世の中は見えないものが真実、実在なんですよ。 宇宙は見えないんです。見えるものは ほんのわずかしか ない。」と言われる。
つまり、光も波であり、電波も波である。
そしてよく「波動の高い人」と言う言葉を聴くが、波動も同じ波である。
実は世の中に物質は存在しなく、すべてのものは波動だといわれる。
と、話が小難しくなったが、世の中には人間の目には見えないし、確かめようのないものの方が実は多く存在する。
そんなものがこの赤外線で撮る風景には写るのではないか?
と、言うのが、今回はじめて赤外線域の自然風景を撮った理由である。
カラーとして観ている人間の目なのだが、一昔前は「白黒写真」の時代があり、風景をモノクロで撮ると、実は木の葉の緑も、 神社の朱塗りの鳥居も、黒っぽく写る。
ところが、色の存在しない赤外域の写真では、木々の葉っぱも朱塗りの門も「白っぽく」写る。
もっと撮っていて不思議だったのが、神社の境内のアジサイだった。
葉っぱも花も同じような「白」に写る。
ところがカラーチャートを比較して貰えばわかるが、白黒画像は赤はかなり暗く写るし、隣の緑もそれよりは明るいが、それでもグレーである。
ましては上の列の深緑はかなり暗い。
カラー撮影画像 | 白黒撮影画像 |
赤外線撮影画像 | 紫外線撮影画像 |
なのに、木々の葉っぱは白いし、アジサイの花の藤色も真っ白に写る。
つまり顔料の色と、活きた植物の色は違って写る。
聞くところによると、戦争中にジャングルに隠された基地などは、赤外線写真で判断されたとのこと。
私は赤外域では、命あるものは白っぽく写るのではないかと思う。
そう考えたとき、山ノ神の棲家で使われている朽ちたはずの杉の巨木で作られた部分も、実は白っぽく写っている。
まだ命があるのかも・・・・
さて、前置きが長くなったが、私は宗像大社の例から、夜も赤外線を使えば画像は写ると考えていたのだが??
帰りに、夕方から撮り始めたが、結局太陽の光には赤外線が含まれているが、太陽が沈めば結局のところ赤外線も無くなると言うことを、実は初めて実感した。
結局、昼間撮るのと、似たような写真しか撮れなかった。