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客観視
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先ほどは、DVDに使われている写真について、ずいぶんと手厳しいことを述べたのだが、ただ私は自分のことを棚に上げて他人をけなすことは好きではない。
 
下記の文はもう10年ほど前にミクシイの日記に綴っていたものだが、はっきりとしたポリシィを持っているので、転記させてもらう。
 
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●客観視
 
以前に、恩師のはなしで「作品に作者の思い入れを詰め込んでも、見るヒトにはそれは伝わらない」と書いたと思う。
 
 
 
でも・・・
 
作品って「自己表現」やん?
 
表現する」って、誰かへ「伝える」事とどう違うの?
 
と、随分難しい話になるんだけど、つまり、自己表現とは本来他人に伝えるというより、「自分で自分を確認する行為」だと思ってみたりして・・・
 
 
 
よく、僕は自問自答をする。
 
それの応えが作品となるんだけど、それは第三者にちゃんと伝わるものではないと思っているわけよ。
 
じゃ、第三者には自分の作品がどう映っているのか?
 
 
 

 
 
先日の客観的な自分が、幽体離脱のごとく、空中に浮遊し、自分の言動を見ていると言うのは、まさにそれと同じで、「第三者の目」で自分を見てみることなんよ。
 
でも、自分自身を客観視するって、どうするの?
 
 
 
答は簡単「意識を外に置く」ということ。
 
 
 
作品、特に僕の場合、写真の中でも「モノクロプリント」を自分で焼いていたやん。
 
写真って、撮っているときに「いい!!」と思ってシャッターを夢中で切っても、それが写真としてみたときに「写っていない」ことが多々、いゃ大半かなぁ・・・
 
つまりコンタクトと呼ばれる、フイルムの「ベタ焼き」を覗きながら、伸ばす写真を探すわけ・・・
 
で、とりあえずいくつかに丸をつけて、焼いてみる。
 
ただ、焼くといっても、写真って「撮った瞬間」と、「写真として創る」楽しみがあり、プリント作業はその創る楽しみの部分。
 
創っている間は「主観」なんよ、自分自身の・・・
 
あぁやって、こうやって・・・といろいろと手を入れる。
 
たげど・・・・
 
今度はそれを「鑑賞者の目」で選びなおす。
 
 
 
それが「作者の思い入れは、鑑賞者に伝わらない」ことの裏返しなの。
 
自分の主観は伝わらないけど、自分が他人の作品を見たときに、何に心を奪われるか?
 
を、自分が客観的に自分の作品を見たときに、それが判る。
 
 
 
投げる」という言葉があるやん?
 
ボールを投げるとか、あるいは物事を投げ出すとか・・・
 
 
 
僕はこの「投げる」という行為と言うか、意識と言うか、これが自分の作品を客観視する秘訣だと思っているわけ・・・
 
投げる」とは自分の「手を離れる」ことやん?
 
 
 
つまり、「自分の意識の外に置く」ということと同じなんよ・・
 
と、言っても自分の作品を他人の作品として見てみるって、そう簡単ではないと思う。つまり「主観を排する」わけやん?
 
 
 
僕はこれをする為に、例えば丁寧に1枚1枚焼いたプリントを、一度床にばら撒くと思ってもらえばいい・・・・早い話が「床に投げる
 
 
 
そして、そのまま放置し、時間の問題じゃなく、ぜんぜん違うことを考えてみたり、その場を離れたりして、その作品のことを一度完全に忘れてしまう。
 
 
 
で、それから何気なくばら撒いたものを見てみる。
 
この時点で、完全に意識を作品の外に置くことが出来るわけ・・・
 
その気持ちのまま・・・作品を見てみる。
 
それが第三者の視点だと思うわけ・・・
 
他人が創った作品を見ている感覚なんよ、その時は・・・
 
その中で「いい!!」と思ったものが、第三者の目で見てもいいものだと思う。
 
勿論、百人百様の見方考え方があるけど、「鑑賞者の一人の目」にはなりえる。
 
作者の思いを詰め込まなくても、いいものはいい・・・・
 
 
 
自分を客観視するのも、同じ理屈で出来る。
 
 
 
くまさん
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と、口語体で書いていた。
 
(資)文化財復元センター おおくま
 
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