「論語と算盤」と「論語と算盤・現代語訳」渋沢栄一
渋沢栄一の本は3冊目である。
この本も、「講話集」らしい・・・
最初に読んだものが、あまりにも読みやすく、古さを感じなかったから、当然本人がそう言っているものと思ったら、2冊目はそれより若干読みずらいが、読みにくいと言うほどでもなかった。
ところが最初の「論語と算盤」を読みだすと、それらと違い、口語体で書かれていると言う割には、古いタイプでとても読みづらい。
このまま読み続けても、理解しにくいと思い、再度Amazonを検索すると「現代語訳」と書かれた本を発見。
再度注文したが、読み始めると、さすがに読みやすく、理解しやすい。
この本には渋沢栄一の人生で得た体験をもとに、「人生訓」が述べられているのだが、確かに「論語」の引用はあるが、しかしそれを用いなくても、渋沢栄一の「経験談」だけでも、十分に説得力がある。
ただ、読み進めていくと、だれの著書にもあることだが、やはり他の著書と内容がダブる部分もあった。
しかし、同じ孔子を引用しても、北尾氏はあくまでも「論語読みの論語知らず」の域を出ない、私利私欲の人であるのに対し、渋沢栄一は、私心を持たず、私利私欲に走らず、「公共の利益」や「国の利益」を優先する人らしく、自分では取るべき利益も取らずに、財閥も作らなかったらしい・・・
まさに「君子」の鏡と言うべき人であったと思う。
ただ、おかしなことに、私は何度も易で「渋沢栄一は君子である」と問いかけたが、返ってくる卦に書かれていることは、手放しでほめたたえるものではなかった。
普段なら、必ず良い答えが返るはずなのに・・・
私の見込み違いか?と、ネットで「渋沢栄一の評価」を調べても、何も悪い話は出てこない。
2冊目を読んでも、やはり「君子」だと思う。
でも易では「17.髄(ずい)・沢雷随(たくらいず い) 何に随うか」とか「20.観(かん)・風地観(ふうちかん)ものの見方について」などの卦がよく出る。
つまり、「神」としては、渋沢栄一の評価は悪くはないが、全面的に支持しているわけではないらしい・・・
その理由が3冊目を読んで、やっと解った。
彼は「天」と言う存在は認めていて、努力した後は「天にゆだねる」という話をしてはいるが、しかし「神」や「霊」と言う存在はどうも認めていないらしい・・・
どう違うかと言うと、「天」は意識を持っておらず、ある法則に従って流れるものと思っているらしく、「神」や「霊」は意識を持ち、各個人に対して運勢を左右する力があると考えているらしい・・・
その事は、彼は「祈祷」を信じないし、「ニューソート」の奇跡も信じていなかったらしい。
そのあたりは「孔子」も同じで、彼も「人」についてはいろいろと述べてはいるが、「鬼神」を遠ざけると言う考え方であったらしい。
そのあたりの事を、「神」は認めていないから、手放しで良い卦を返してこない様である。
いずれにしろ、「君子」という私の判断は間違っていないと思うが、仕事は私心がないが、こと「おんな」に関しては、例外であったらしい・・・・
妾も居たし、大勢の子供を作ったらしい・・・
英雄、色を好む。
(資)文化財復元センター おおくま