渋沢栄一の本は3冊目である。
この本も、「講話集」らしい・・・
最初に読んだものが、あまりにも読みやすく、古さを感じなかったから、当然本人がそう言っているものと思ったら、2冊目はそれより若干読みずらいが、読みにくいと言うほどでもなかった。
ところが最初の「論語と算盤」を読みだすと、それらと違い、口語体で書かれていると言う割には、古いタイプでとても読みづらい。
このまま読み続けても、理解しにくいと思い、再度Amazonを検索すると「現代語訳」と書かれた本を発見。
再度注文したが、読み始めると、さすがに読みやすく、理解しやすい。
この本には渋沢栄一の人生で得た体験をもとに、「人生訓」が述べられているのだが、確かに「論語」の引用はあるが、しかしそれを用いなくても、渋沢栄一の「経験談」だけでも、十分に説得力がある。
ただ、読み進めていくと、だれの著書にもあることだが、やはり他の著書と内容がダブる部分もあった。
しかし、同じ孔子を引用しても、北尾氏はあくまでも「論語読みの論語知らず」の域を出ない、私利私欲の人であるのに対し、渋沢栄一は、私心を持たず、私利私欲に走らず、「公共の利益」や「国の利益」を優先する人らしく、自分では取るべき利益も取らずに、財閥も作らなかったらしい・・・
まさに「君子」の鏡と言うべき人であったと思う。
この本、年末に一度読んだものである。
最近「易経」を使い、自分の運勢の流れを見る。
するとたびたび「君子」と言う言葉と「無心」と言う言葉に行き当たる。
何となく、ニュアンスは解らないでもないが、しかし具体的に説明できない。
元々理屈で考える性格なので、そこのところが気になる。
そこで、この本の存在を知り、一度読んでみたが、何分戦前のものであり、無心と言う形のないものを言葉で説明するものだから、「たとえ話」となる。
なんとか言わんとするところは判りはするが、読んでいて何度も眠くなる。
今日もまた読み直しを始めたが、すぐに眠気が襲い、何度読み進めてもすぐに眠くなる。
ただ、本日はその「無心」ということを、著者はどういう例えで話をしているか?
それがこの本の最初の部分でもいくつも出てくる。
1.木々の木の葉の影が大地にできるが、その影が風で揺れても、地面のチリ一つ動かないとか、月が水面に映ってキラリと光っても、水面は動かない・・・・
2.今、神が現れ、海辺にある櫂も帆もない小舟に乗り、大海に出よと命じたら、何の躊躇もなく、出て行く。
3.神を信じるとは、信じられる証拠があるから、信じるのではなく、信じるからそこに神が存在する。 また、神は奇跡をお越し、助けることができるかと問われれば、答えは「お前は助けられたことがないからそんなことを言う」と応える。