『ユング心理学(Ⅱ)「心のしくみを探る」」林道義・著
Ⅰ卷は確かにこの手の本にしては解りやすく、続けて読む気になった。
さて、Ⅱ巻目はなお私の興味のある話が多い。
無意識の中で否定されるものを、ユングは「影」と呼んだらしい。
で、私がなるほどと思ったことなのだが、私は離婚して出会い系で、500人を超える人とメールのやり取りをした。
さらに遡り、インターネットが普及する以前に「パソコン通信」と言う時代があった。
その中にフォーラムと言う同好会があり、その一つに「写真フォーラム」があるのだが、そういう趣味の集まりの中で、「文字」によるコミュニケーション、つまり会議室でやり取りをすると、何度も「喧嘩」が始まる。
それは、喧嘩を吹きかけている人間には一つの特徴がある。
それは、相手の意見を、「誤解」して受け取っているのであるが、当人はいくら説明してもそれに気が付かない。
また、先ほどの出会い系のメールのやり取りにおいても、今だからプロフィールの写真のやり取りは簡単だが、10年以上前は写真のやり取りが手間で、女性はそれを理解できなかったりした。
そうすると、なおさらメールの「文章」のやり取りの中に、「相手のイメージ」を創り上げてしまう。
それはどんどん大きくなり、実際に相手に会うと、「えっ!! こんなはずじゃ・・・」と、自分が抱いたイメージと本人のギャップを知る。
もっとひどくなると、会ってもその事に気づかず、一緒に暮らしだしてからその事に気づく人もいる。
また、よくメールのやり取りのあいだに、喧嘩になる。
それは、相手の文章を、自分が受け取り違いをして、それで怒る人が割と多い。
私はよく言うのだが「物事はそれを発する側より、受け取る側の責任が大きい」
つまり、全ては自分の受け取り方で変わる。
それが無意識の領域の問題であることが、ユング心理学を学ぶと判る。
で、出会い系でのやり取りで、当人が「相手に抱くイメージ」とは何か?
それが、まさにここに書かれているのだが、「鏡に映った自分の姿」なのである。
しかし、それをいくらその人に言っても、当人にはそれが自分の姿だとは理解できない。
つまり、それがユングの言うところの「無意識の中で否定されたモノ」であり、「影」だから、自分自身では知らないわけだ。
また、先日、なぜ神様は人に性格の違いを作ったのか?と疑問を呈したのだが、シスター鈴木秀子は「エ二アグラム」で性格を9つに分けられると言う。
それは「顕在意識」からみた性格の違いなのかもしれないが、ユング心理学にも性格の違いの分類があるらしい・・・
大きく分けると、「内向型」と「外向型」で、その中にも「思考」「感情」「感覚」「直感」と要素があるらしい。
そのなかでも私は「内向的思考型」にあてはまりそうだ。
特徴は自分の心の中に「基準」を持っていて、それに従って行動するし、自分で自分を律したり、学問を導き出したりする。
まさにその通りなのだが、私は自問自答し、その中から答えを得ることが多い。
すると、本などから得る「知識」より、自分で思考することが大事だと理解した。
また、物事の判断基準は、一般の人々とずいぶん違う。
それは周りに影響されないのだが、まずその「基準」と言うものを「内なる存在」からしっかりと学んだと思う。
だから、どんなに周りと自分の考え方や行動が違っていても、「われ関せず」で我が道を行く。
それはある意味、他人の事に無関心な面もあるし、また自分の基準と違うものに、攻撃的な面もある。
このタイプとしてはカント・プラトン・ニーチェなどらしい・・・
いかにも哲学者タイプなのである、私は。
さてこの巻には、もっと興味のある話が有った。
ユングは集合的無意識の中に、人類の共通する「元型」があると言うが、その一つに「神のイメージ」と言うがあるらしい・・・
これぞ私が知りたい事であったのだが、ユングは「神とは無意識である」と言う。
我々はどんな無信心な人でも、潜在的に「神のイメージ」は持っていると言う。
ただ、我々がその潜在的に持っている「カミ」は「神そのもの」ではない。
つまりイメージであり、実際に神を見た人はいないから、どんな姿をしているかは、その人の持つイメージによって変わる。
Ⅰ巻には「魂」や「霊」と言う言葉も出てくるのだが、ユング的にいうと、顕在意識 ⇒ 魂 ⇒ 霊 ⇒ 神 と言うビラミットらしい。
そのいいちばん上の「神」にも、人間の一番身近な存在が、日本でいう「八百万の神」であり、一番人間から遠いのが「一神教の神」だと言う。
上に行くほど絶対的な力を持つと言う。
ただ、一神教は排他的で、他の神を認めない。
キリスト教もイスラム教も、他の神を認めない。
また「神秘主義」と呼ばれる人々は、「神との一体化」を目指す。
「神義論」と言うものがあり、つまり神様が正しいということを証明しようとするのだが、よく善良な信心深い人でも、幸せでない人がいるし、その逆の人も現実に居る。
そうすると「神は不公平」だと思うのだが、それを「現世の行いが良くても、前世の行いが悪いからだ」と説明されたりする。
そういわれると、納得せざるを得ないが、それがもっと進むと「神の摂理は計りがたし」と、神の考えは我々の顕在意識では理解できないと言う話になる。
チャクラについてのキャロライン・メイスが、著書の中で言っていることになる。
また、神は絶対的な力だから、人間と対等に渡り合うことがなく、人は神に従わざるを得ない。
しかし、その神にも「変化」が起きていると言う。
もし、神が全知全能で、完全な存在なら、変わる必要はないはず・・・
著者が訳したユングの「ヨブ記」にはその事が詳しく書かれているらしく、その本の昨夜注文したのだが、要するに信心深いヨブに対して、神の手先である悪魔が、信仰心を試すために、家族や財産を失くさせた。
神は悪魔のそれを許したと言う。
最後にヨブは神に文句を言う。
たてつくわけだが、すると神はそれを押さえつけ、それで話は終わるらしいのだが、実はその後に神の考え方が変わってきたと言う。
ヨブの「意識」から、神に語りかけたということは、「神は無意識」であるということになるらしい・・・
ヨブが人間の意識の立場から疑問を突き付けた。
それに対し、無意識である神は何も答えられなかった。
それはユングの言う「無意識の法則」に従っているということが、暴露された。
つまり、神は正義でもなければ、全知でもないことが判った。
で、話が飛ぶが、結果として「神が人間」になり「人間が神」になったと言う。
これは人間は神的な存在になりうる。人間は神的な存在を内面に持っていて、それによって神様の次元に行くことができる。
つまり人間が神になると言うイメージは、人間は救いの原理を内在的に持っているということらしい・・・
この話で、私は気が付いたのだが、よく精神世界では、「神は内にある」と言うのだが、なぜそんな話が出るのか?
その答えがまさにこれなのである。
つまり、我々の意識の中には、顕在意識 ⇒ 魂 ⇒ 霊 ⇒ 神 と、どんどん深くなるらしく、その神も魂も霊もすべて自分の中に在るわけだ。
それが「無意識」の世界と言える。
なるほど、神がうちにあるということは判ったが、しかしこれはあくまでも「集合的無意識」の中の「神のイメージ」の元型である。
イメージであり、本当の神ではない・・・
と、いうことは、神と言う存在はやはり、自分の外に存在し、その分身が自分の内にあると言うことで、私は納得した。
(資)文化財復元センター おおくま