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「霊能一代  砂澤たまゑ」  つづき・・・その1

どうしても、この本について、もっと書きたいと思う。

011
それはたぶん・・・「内なる自己」つまり潜在意識かあるいは「魂」か「内なる神」が、「健在意識」の私に働きかけているのだと思う。

 

この本はすでに4度ほど読んだ。

読み直せば読み直すほど、この砂澤さんの霊能力の凄さが解る。

 

彼女は確かに「大正十一年一月一日」の生まれで、すべてが一並びだという。

おかげで負けず嫌いの子供だったという。

 

だけど、ただ負けん気の強さだけではなく、父親は鋳物師で、母親は稲荷教会の娘だったらしく、小さい時から信仰心の篤い子供だったらしいが、同時に人に対して思いやりがあり、小学校には、近所の「乳姉妹」というべき、赤ちゃんの世話を自らしていたらしく、背中にその娘を負ぶって、小学校に通ったり、近所の家の手伝いを頼まれもしないのに、勝手にしたりしていたらしい。

 

そして、その評判を聞いた人が、彼女をその家の子供の世話と、母親の病気の看病のために、手伝いに出してほしいと、父親に相談に来たらしく、父親はその気がなかったのに、彼女が自ら手伝いに行くと言って、結局小学5年と6年の2年間、その家に住み込み、手伝いをしたとか・・・

 

イマドキの子供なら考えられない話。

 

その後も彼女は一生の間に、血の繋がらない子供を9人も育てたという。

 

それだけ聞いても、どれだけすごい女性か判るのだが、子供のころにすでに神様が彼女に時々話しかけたり、いろんなことを教えてくれたりしたので、神さまって便利なものだと思ったらしい。

 

彼女は小学校を出ると、働きに出たらしく、当時は田舎の娘はそれが当たり前だったとのこと。

彼女は最初は知人の紹介の医者の家で住み込んだらしいが、いずれ洋裁学校でミシンを習い、その技術のおかげで、戦争中に満州に行っていて、命を長らえたという。

 

その時も神様が、日本に居ては、戦争で危ないから、満州に行こうと言いだしたとか・・・

神さまは「今度の戦争は、神風は吹かないし、日本は昭和二十年八月十五日に戦争に負けるから、八月の二十五日に日本に帰ってこよう」と、はっきりと言ったとのこと。

 

そしたら、実際に満州の「バルーン爆弾」の工場で求人があり、すんなり通って、満州に行き、そして無事言われた八月二十五日に、きっちり日本の土を踏んだという。

 

これも凄い話だと思う、きっちりその彼女についている「お稲荷さま」には、先が見えていたわけや・・・・

 

 

戦後は、いろんな仕事を経験したが、求人も少ないので、自分でお菓子屋さんを始めたけど、弟たちが仕入れ値よりも安く売ったりするから、赤字が続き、そこで神様にどうしたらいいか?聞いたら・・・・

「ほら、言うことを聞かないからだ・・・」と怒られたらしい。

 

つまり、神さまは以前から彼女に「お代になれ」と、勧誘していたらしいが、まだうら若き娘としては、夢もあるし、断っていたらしく、その彼女が根を上げるのを待っていた様子。

 

ただ、私も復元の仕事に導かれたと思うのだが、自分のやりたいことの道は、最後は神さまから断たれるみたいな気がする。

 

だから彼女も商売がうまくいかないように、神さまは手を回したらしい・・・

 

 

 

彼女も本に書いているけど、神さまは信じる者にはいろいろと「おかげ」を与えてくれるが、神さまの言っていることを聞かないと、逆に罰を与えたりするのが、日本の神さまらしい・・・

 

一方西洋の神は「契約の神」らしく、キリスト教などは「人間は最初から罪を背負って生まれてきた」だから、それを「信仰」という名の「贖罪」で、それを償わなければならないという考え方らしい・・・

 

またスピリチュアル系で言えば、宇宙の創造主である「神」は、全知全能で、その分身として「人」を作ったから、本来、人間は不可能なことなどなく、「自分の思考」の狭さが、不可能を作っているし、「思考」を変えることで、不可能が可能になり、病気も自分の気持ち次第で治るという。

だから、神さまは自分の分身に罰など与えないし、罰は自分で創りだしたものという。

 

つまり「引き寄せの法則」で言う、すべては自分の思考が引き寄せているという考え方なのだが、そうすると私が体験した不思議な出来事はすべて、自分が引き寄せたものということになる。

だけど、少なくても「顕在意識」にはない出来事ばかり起きるし、仮に自分の思考が引き寄せているなら、もっと自分の得になることを引き寄せるけど・・・

 

 

で、実際に私も1年ほど前から、スピリチュアル系の本をいろいろと読んで、引き寄せを試みたが、結局うまくいかない。

 

そこには、先日もある霊能者から言われたのだが「確かに引き寄せの法則もあるかもしれないけど、しかし日本の神さまは、そんなものよりも大きな力を持っている」「上手くいかないのは、信心が足らないから・・・」と言われてしまった。

 

確かに、砂澤さんじゃないけど、神さまの存在を現在、嫌と言うほど「実感」させられている。

 

 

 

さて、話を戻して、砂澤さんも結局あきらめて、「お代」になるための修行に入るのだが、神さまはつきっきりでその修業の指導をしたらしく、真冬の雪の積もった夜中に、白衣一枚で、自宅横の川に浸かり、一心不乱に祝詞をあげ続けたら、声が破れたらしいが、一度破れたら二度とは破れないという。

その雪の積もったところを夜中に白衣一枚で歩いて川に浸かるものだから、村の酔っ払いが「幽霊」と間違えたらしい・・・

 

もともと彼女の母親は、稲荷教会の娘だが、母親は実は養子で、その教会の先生とは血が繋がっていないという。

その母親の育ての母は、やはり霊能者で、二千人の信者を抱えたことがあるほどの凄い人だったらしい。

 

本来なら、砂澤さんの母親が後を継ぐべきなのに、父親と結婚して家を出たし、義理の娘だから、霊力は無かったらしいが、結局その娘がその後を継ぎ、稲荷教会として信者を集めることになる。

 

つづく・・・・

 

「霊能一代  砂澤たまゑ」  つづき・・・その2

011

だから、砂澤さんの母親は、自分が跡を継がなかったから、子供が跡を継ぐことになったことをちゃんとわかっていて、彼女には何も言わなかったし、ある時「神さまの娘なら、これくらいでは死なない」と言って、寒中の水の中に放り込まれたこともあったらしい。

 

 

神さまは、砂澤さんに

 

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神さんはわたしにすべてのことを忘れろ、何も考えるなとおっしゃりました。 バカになれとも言われました。

無にならなければ、神さまは動かれようがないのです。

 

とまれ、私のような御神示が受けられるものは珍しく、教師の資格を持つ人でも少ないでしょう。

 

行は和田山で日々積むだけでなく、京都の伏見稲荷のお山でも行いました。 ここには頻繁に通いました。 これもすべてご命令でした。 それは今日に至るまで続いております。

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と、書かれているのだが、日本の神さまは自分の手足となって仕えてくれる「お代」を求めておられるらしく、彼女も本に書いているのだが、自分のような霊能者は数十万人に一人だろうという。

でも、それだけの霊能力を持っていても、修行をしないと本物に慣れないらしく

 

 

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何度も申しますが、自然が神様です。 自然の中に霊があり、それが肉体に宿るのです。 神様仏様はみな自然の中におられます。 だから私たちは先祖を祀り、神さまに手を合わせてきたのです。自然の中の霊と先祖が神さまで、一番力があるのです。

 

形のないものが一番力があります。

 

霊の世界も複雑です。 私のような霊能者には、霊の世界が分かります。 だから霊能者なのです。

 

霊には悪い霊もあります。 死後に供養されなかった霊です。そういう霊は、ポンとたたくだけで払えるものもありますが、除霊しなければ払えない霊もいます。 除霊するにはする側の霊力が強くないとできません。 霊能者の力が高くなければ負けてしまうからです。 つまり霊能者にりっぱな強い神さまがつかなければ負けてしまうのです。 そのためには霊能者が修行を積んだ能力の高い人でなければなりません。 そうでないと立派な神様がつかれないからです。

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と、はっきり書かれている。

 

ここまで言い切れるのは、やはり厳しい修行を耐えた人だから言えることだと思う。

 

ただ、そこまで言う彼女も、実は途中で何度も自殺を試みたという。

だけど、死なせてもらえなかった。

 

だから、逆にどんな荒行をしても死なないと思うから、耐えられたらしい・・・

 

で、その荒行の最たるものが、百日間の断食だったらしく

 

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百日断食中もお山を巡り、すでに述べましたようなさまざまな行を行いました。

食べていないからといってじっと座っているわけではないのです。 ですが、食べていませんから、八十日を過ぎるころには、山道を登ることなどできなくなってしまいました。 それでも手に草履をつけ、ひじや膝にも草履をあてがって、這ってでも昇ろうとしました。

 

でも、ついに力尽きてしまい、歩けなくなってしまいました。 すると神様が迎えに来てくださり、白いお馬に乗せられて清明舎まで連れて行ってくださりました。

 

こうした苦行の果てに、わたしは百日断食を満願達成いたしました。 私の他にも何人かがこの荒行に挑まれましたが、私の他はだれも成し遂げることができませんでした。 これはわたしの中でひときわ大きな意味をもつ出来事でした。

 

生死を掛けた激しい行の中で、生死の境をさまよっていると、神さまが見えてきました。 それが私の信仰心を確かなものにしました。命をかけなければ何も見えてこないということを悟りました。

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と、書かれているように、彼女の行はすさましい物だったようですが、だからと言って彼女の体は決して大きくなく、どうも写真を見ると百五十センチあるかないかくらいの小柄な女性の様です。

 

とにかく、凄い人だと思います。

 

仮に彼女を超える「お代」がいるとしたら・・・

 

二十歳ほど年上の「中井シゲノ」ぐらいじゃないだろうか?

 

つづく・・・・

「霊能一代  砂澤たまゑ」  つづき・・・その3

011
そんな感じで、彼女の人生はすさまじいものだったようですが、、この本の後半は、彼女を取り巻く信者さんとの不思議な話を記してありますが、そういう不思議な話も面白いのですが

 

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いまはほとんどの人が神様の存在を疑っていますから、神様がいると申し上げてもなかなか信じようとされません。

今の時代は目に見えるものしか信じなくなってしまいましたので、無理もありません。

 

ですがいらっしゃるのです。あなたの肩の上に停まっておられることもあります。 神様以外にもさまざまな霊があなたの周りにはたくさんいます。 私にはそれが見えますが、普通の人にはそれが見えないだけの事なのです。

 

神さまは姿形は見えませんが、それだけに何でもできます。 だから怖いのです。 神様はいつも見ておられ何でもご存知です。

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と、書かれていますが、確かに目に見えない神様の怖さを、現在まざまざと見せられています。

こういう話は、自分が経験しないと解らないでしょうね?

 

ただ、実はどんな人にだって、自分の周りにいろんな不思議なことが起きているんだけど、実はほとんどの人はそれに気が付いていないだけの話で、世の中に「偶然は存在しない」とは、スピリチュアル系でもいいますが、自分が意識しない限り、その事に気が付かないだけの事なんですね・・・

 

 

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人はすべて神の子です。 人間は、自分で何でもでき、すべて自分で決めてやっていると思いあがっていますが、実は神様がそうさせておられるだけの事なのです。

 

神さまは姿形がなく目には見えませんから、何も知らない人たちにそれを信じろと言っても、なかなか難しいと思います。 そういった人たちが、神さまを信じられるようになるためには、何らかの奇端があったり、不思議なことを体験したり、言われたことを信じてやってみたらうまくいったり、助かったりと言った経験をすることが必要なのかもしれません。

 

こう言った経験を積み重ねながら、人間は信仰の道に入っていくのですが、そういうことを人に体験させるためには、私にその能力がなければなりません。 そうでなくては、たくさんの人が信じてついてきてくださらないからです。 その能力を身につけるために、私は激しい修行を積んできたのです。

 

私はすべてのことを断言しますが、それは神様がそうおっしゃっているからです。

 

神さまがおっしゃっていることはすべて正しいということを私自身が身を持って体験してきたからこそ、自信を持って断言できるのです。

 

しかし、力のない霊能者にはそれができません。 ですから当たることもあれば外れることもあるとなってしまうのです。 多少霊感があると言う人は時々おられますが、そういった人と修行を積んだ本当の霊能者とは霊力が違うのです。

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と、自ら言われているわけで、ここまで自信を持てるのは、外れたことがないということでしょうし、またあれだけの修行を積んだからこそ、絶対の自信を持たれているのでしょう。

 

いずれにしろ、この本に導いてくれた、我が守護霊に感謝します。

 

(資)文化財復元センター  おおくま

続・「〈神道〉のこころ   葉室頼昭」その1

ここ2年ほど、精神世界の本をずいぶん読んだ。
 
感激したものの中には「高橋信次」の本もあるのだが、彼も霊能者で、ずいぶんと自然に感謝することの大切さや、我をなくすことなど、「人間・釈迦」のシリーズや、「愛は憎しみを超えて」という小説で、判りやすく説いていて、私も彼の本から「やすらぎ」を得た。
 
私はもともと、神経質なところもあり、慢性胃潰瘍なのだが、その回避策を以前に付き合った女性の生き方から学んだことがあり、何か心配事が起き始めたら、気持ちを外に向けることで、軽いものは回避できた。
 
しかし、それでもやはり心配事があると、胃に来る。
だから「ガスター10」という薬は、その時の特効薬となっていたのだが、高橋信次の本を読んで心の「やすらぎ」を得られるようになって、その薬は一度も使わなくなった。
 
確かに、物事は自分の「受け取り方」次第で、自分の受け取り方を変えれば、安らぎは得られる。
 
 
ただ、気持ちの持ちようで、安らぎは得られても、それで自分の人生がすべて好転するわけでは無いようで、そこには「目に見えない不思議な力」の影響は、切っても切り離せないものだと、私にはおもえる。
 
 
そこで、その後もいろいろと答えを求めて、いろんな本を読むのだが、その中で先日「霊能一代  砂澤 たまゑ」という本に導かれたのだが、同時に著者の葉室頼昭と言う人にも縁が繋がった。
 
この砂澤さんも葉室さんも1年ほど前に、別々のブログで存在は知っていたものの、その時点ではそれ以上興味が行かなかった。
 
神道のこころ
で、この葉室頼昭さんは公家の「藤原家」の血をひく方の様で、もともと藤原家は天皇と神社を繋ぐ仕事をされていた家柄らしい。
だから春日大社という大きな神社の宮司なのか?と最初は考えた。
 
しかし、この本を読むと、学習院時代の話から始まるのだが、華族の世界は特殊で一般人と接触の無い世界らしく、言葉遣いも独特で我々庶民とずいぶん違うという。
 
そういう家系に生まれながら、医者の道に進まれたわけだが、阪大に医学部に在学中に、肺結核と診断されたが入院せずに勉学に励んでいたら、ある時吐血したらしく、結局東京から両親が来て、彼を戸板に乗せて、汽車の4つの座席を取り、そこに寝かされたまま、実家に帰ったという。
その時に知人が渡してくれた1冊の宗教の本を読んだ。
 
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読む気はなかったんだけど、汽車のなかで何もすることがない。 寝ながら読んだんです。 あとで知ったのですが、岡山大学の産婦人科の先生で生長の家の幹部のひとが書いた本でした。 それを読んでいて愕然としました。 自分がいままで考えていたことと全然違う世界が書かれてある。 人は生かされて生きているということがずっと書いてある。 それを読んでいたら、感激して、涙が止まらなくなった。 その時私は欲が無なくなってしまった。 死というものが目の前に来ると、生きたいとか、医者になりたいとか、自分では気づかなかったんだけど、そんな欲望は全部なくなっていた。 無我になっていたんですね。
 
そこへそういう本を読んだものだから、泣けて泣けて、泣き続けて東京まで一冊を全部読んでしまった。 東京駅に着いたら、ぼくがホームで立ち上がった。おふくろが何しているのという。 神戸を出るときは立ち上がるどころか、起き上がる力もなかったのが、東京駅で立ち上がった。自分でもなんで立ち上がるのかと思ったくらいです。 おふくろが寝ろというから、また寝て、車で家まで帰ったんです。
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と、書かれているが、実は私も先ほどの慢性胃潰瘍が治ったのは、高橋信次の「愛は憎しみを超えて」という小説を最初に読んだとき、涙があふれて、何度も泣いた。
そのストーリーは、戦後の若い高利貸の青年と、彼の周りの人々の話なのだが、思いやりの心の大切さを説いたもので、感動して、涙が止まらなかった。
 
それから、胃が痛むことが無くなったから、確かに葉室頼昭さんのこの話はわたしには納得できる。
 
そして、葉室頼昭さんは少し休養して、元気なものだから東大の内科で見てもらったら
 
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そしたらその先生が、あんたなんで寝ているのと言うから、こういうわけで四年間結核で、それでこうなって今はもうだめだと言われたと説明したんです。
 
ところがその先生の言うには、何にもない。病気なんかないよ。私が保証する、昔だったら兵隊で甲種合格だ。 何もないから、大阪に帰って医者になれと言うんです。
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この手の病気が無くなると言う話は、スピリチュアル系と言うのか、ニューソートというのか、そこには病気はすべて自分の気持ちが創りだしたものだから、「信じる」気持ち次第で奇跡的に消えると言う話は、結構多い。
 
ただ、神道系では先日の「口語・神判記實」などには、いろんな「おかげ」の話はあっても、病気が消えると言う話はなかったと思う。
一方、「古神道」関係では、結構この手の話は出てくる。
 
 
この葉室頼昭さんはその後医者になるのだが、彼はその間もいろいろと不思議な「導き」を感じているようだが、「形成外科医」と言う、特殊な分野に進むのだが、一般外科と形成外科とではまるで違うと言う。
 
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どういうことかと言うと、たとえば傷をつくる。 そうすると傷跡が残る。 外科では皮膚を切って、傷跡が残るのは当たり前だという発想です。 たとえば盲腸でも傷跡が残るでしょう。 一般外科はそれをどのようにしたら目立たなくできるかという発想なんです。 
 
ところが形成外科は逆なんです。 赤ちゃんで生まれた時、どこにも傷がなくて、お母さんのお腹から出てくるじゃないですか。 とくに顔なんていうのはお母さんのおなかのなかは最初割れているんですね。 それがくっついて顔になってくる。 どこにくっついたあとがあるかということです。 だから傷跡を残さずに治るのが当たり前なんです。 なぜ傷が残るのかということでスタートしているんですね。 だからまったくスタートが逆なんです。 この頭の切り替えをやらない限り、形成外科は理解できない。
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やはり、凄い人だと思いますよ・・・・
こういう考え方ができる人は、確かに西洋医学の世界には少ないでしょうね?
 
もともと、こういう現代の一般の人たちと、考え方が違う方なんですね。
だけど、後で判りますが、結局はこの葉室頼昭さんを春日大社の宮司へと導く、神さまのご意志だったようです。
 
 
また、葉室さんは東洋医学の鍼も習得されて、治療に活かされているのですが
 
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脳溢血とか狭心病とか、、それぞれで死ぬ大きな原因は首や肩のこりです。 東洋医学のものの考え方は西洋医学と違います。 西洋医学は目で見る医学だから医者が検査して、病名を診断する。 そしてそれの治療ということをする。 西洋のものの考え方は何でも征服すると言う思想です。 病気を征服すると言う考え方のもとに行われているのが西洋医学です。
 
それに対し東洋医学は全く違って、人体を宇宙とみているわけです。 宇宙はどういう仕組みでできているか。宇宙のしくみが解れば人体の仕組みもわかる。 逆に人体の仕組みが解れば宇宙のしくみがわかるという考えのもとに、治療が行われているのが東洋医学です。 宇宙はどうなっているかというと、第一にバランス、太陽と地球とか、いろいろなもののすべてのバランスによって成り立っている。 だから人間の体もバランスによって成り立っている。 バランスが崩れた時が病気ということです、その崩れたのを「証」といいます。 わかりやすく言えば症状です。 ここが痛いとか、かゆいとか、いろいろ症状が出る。 だから症状の一つづつ応えてあげれば、もとのバランスが戻って健康になると、こういう考え方です。
 
だから首がこった、肩がこったというのは重大な体の訴えの症状だと言うことになる。
ところが西洋医学では、たとえ大きな病院に行って、肩がこりましたといったら、ばかにされて、膏薬でもはっておけと(笑)。 ところが東洋医学では大変な症状なんです。 首、肩がこるというのは血行が悪くなっているという訴えなんです。 首から上はものすごく血液がおおいんです。
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と、ご自分が西洋医学の医者という立場でありながら、はっきり悪い部分を指摘する。
こういう態度には、確かに「欲」がないからはっきり言われるのだと思います。
この性格も、神さまの与えられたものだと思います。
 
この話と対照的なのが昨日facebookを見ていると、輸血ではなく、塩水で代用できるという話が出ており、その研究者の名前は、ネット上から抹殺されているという話がありましたが、その裏には医療ビジネスの欲が絡んでいるようでした。
 
(資)文化財復元センター  おおくま

続・「〈神道〉のこころ   葉室頼昭」その2

神道のこころ
この本には

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だから健康で長生きして、若い人たちに、どうだ、こうやって生活すれば、健康で長生きするんだと、それを伝えていくのが年寄りの義務だと思います。 死ぬのもただ死んだらいけない。 立派に死んで、凄い立派な死に方をするなということを若い人に伝えていかなければいけないんです。 だから病院でたくさんの管を通され点滴を打たれて死んだりするのは、あんなのダメなんです。 ぶざまな死に方をしないで、死ぬときは自分の家の座敷で大往生で、みんなに看取られながら、立派だな、おじいちゃんは凄いなと言われて死んでいくことです。 そうして真実の死の姿を若者に伝える。 これをやるのが年寄りの仕事です。 そうしたら若者はみな年寄りを尊敬すると思いますね(笑)。

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と、凄いことを言われていますが、こういう人が医者なんですよ、本当の良心的な・・・・

 

実は葉室頼昭さんの軍人であったおじいさんは、まさにこのようにして亡くなったようです。

ですから、決して理想論だけじゃないんですね。

 

 

また、この本には宇宙の成り立ちが書かれていて

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宇宙の最初は無であったと言うことになります。 その無から物体ができたと。 今の宇宙物理学ではそういう風に考えられています。 ではその無の世界に何があったかということになると、そこに「心」があった どんな心があったかと言いますと、正確には表現できませんが、神の心、大宇宙のどれかの星に、人間という生物を造ろうという神さまの心があったと、私はそう考えています。

 

ところで、どんなに進化し化学が発達しても永久に見ることができないものが一つあります。 それは何かというと自分自身です。 神様もまた自分の姿を見ることができない。 だから神の本当の姿、本当の世の中を見てくれて、そしてそれを実際に表現してくれる人間という生物を造ろうと思われた。 だから人間に言葉という表現方法をお与えになったに違いないと、私は思うんです。

 

つまり、人間が進化したから言葉ができたのではありません。 神様が言葉によって神様自信を表現させようと思って、人間を進化させたと考えるべきです。 まず言葉が必要だったのです。

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この宇宙の心が神であり、その神は自分を知るために人間を作ったという考え方は、「神との対話」などにも後から出てきます。

 

ただ、言葉の話は、あまり聞いたことがありませんが、葉室頼昭さんが言われると、説得力があります。

 

そして、言霊信仰との関係を

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先ほどから申し上げているように、日本には古来から言霊信仰というものがあって、言葉には魂があるから、いい言葉を言えば幸せになり、悪い言葉を使うと不幸がやってくるという信仰がずっと昔から伝えられてきました。 科学の時代に、言葉だけで不幸になったり幸せになったりするというようなことは、非科学的である、嘘であると言う人が良くあるけど、それは間違いです。 いま宇宙のはじめに、無から有になるという話をしましたが、その無には、神さまの御心が宿されていたと私は確信します。 心というのは実体がない波動ですから、その心の波動から物体ができたということになります。 

 

で、最初にできたものというのが原子核を構成する素粒子。 これも当然すべて波動でできています。 その波動から一つの原子核というものができる。 それに対し、電子という波動があって、この二つの波動が引力によって調和して原子というものができたのです。 つまり大宇宙に存在するすべてのものは、原子で構成され、そしてすべての原子は波動、心の波動からできているのですから、今現在地球上に存在する物体はすべて心の波動からできている、神さまのみ心から生まれたということになります。

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どうですか?ここまで見事に「言霊信仰」の正しさを理論立てて説明できる人が、神道にいますか?

 

だから、神さまは葉室頼昭さんを、春日大社の宮司にするために、これだけ他の分野を経験させたのではないでしょうか?

 

しかも、いきなり庶民から出現したのではなく、「葉室家」という藤原家の血をひく、由緒正しい、しかも春日大社は本来その藤原家の血をひくものが宮司をやってきたらしく、ただ血筋がいいから継いだのではなく、彼を葉室家に誕生させたのも、そして女系でありながら、ひいおじいさんも、軍人であったおじいさんも、そして武家から入った銀行員のお父さんも、すべて、「宮司」という職に導いてきたのは、果たして「神」以外の存在でできるでしょうか?

 

こんな現代だからこそ、こうやって「」という存在を一般人に、理論立てて説明できる人間を、わざわざ100年以上の年月をかけて、育ててこられたと考えざるを得ないと思います。

 

そして、彼も

 

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 この世の中は見えないものが真実、実在なんですよ。 宇宙は見えないんです。見えるものはほんのわずかしかない。というのは見えるものというのは眼球が感じる波動しか見えない。 ところが波動というのは無限にあるんです。 だから見えないもの、実在のものが無数にあるんだけど、無数にある波動をわからせるには、少しだけ見せてやろうということなんです。 それが宇宙の仕組みでしょう。 少しだけ見せてやったら、見えないものがある、それのすばらしさがあるということを感じるでしょう。 全部見えてしまったら感動がない。 だからほんのわずか、人間の目が感じる波動は、宇宙の無限の波動のなかのごくわずかなんですね。

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と、「目に見えないもの」の存在こそ、真実、実在だと言っていますが、この考え方はわたしの「文化財」に対する考え方と同じなんです。

本当の価値は、物質にあるのではなく、その中身に在るのだと、ずっと訴えてきましたが、あいにく葉室さんほどの説得力を持たないのですが、しかしこの考え方は、私の顕在意識が考えたものではなく、気が付くと自分の中にあってものです。

 

そして、私もこの仕事に導かれたと思っていますから、葉室頼昭さんと同じ使命を神様から与えられていると思っています。

 
先日の砂澤さんは、数十万人に一人の、高橋信次と同じような霊能者ですが、この葉室頼昭さんは、どうもそうではないようですね?
ただ、素直に神の導きに従われて、神のご意志に沿った人生を歩まれたように思います。
 
私も、砂澤さんのような霊能力があれば、もっと神との意思疎通が楽なんですが・・・
かといって、彼女のような厳しい修行には耐えられませんが。
 
 

(資)文化財復元センター  おおくま

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