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正義感・・・

私はもともと職人気質で、曲がったことが大嫌いな「正義感」の強い男である。
 
これは間違った考えを「正す」ことが、本人のためになり、しいては世の中のためになると信じてきた。
 
 
ところが葉室頼昭さんの著書の中で、親鸞聖人の「歎異抄」の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」について
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これはどういうことかというと、いい人というのは、善人ではなく、自分に悪かったと自覚していないひとです。 自分は悪いことをしていないと言う人でも、仏すくおうとされるんです。 
 
そして悪人というのは、私が悪うございましたと目覚める人です。 そういう人は救われるのは当たり前である。 こういう意味なんですね。 
 
だからいちばん救われないのは、おれは悪いことをしていないんだ、おれは善人だと言う人がいちばん救えない。
 
それは神道の祓いと同じです。 一生払い続けて罪・穢が払われると言うこととおなじです。
 
自分は悪かった、間違っていた。 だからもっと改めましょうと言う人は救われる。 おれは悪くないんだ、おれは正しいんだと言う人は、神さまでも音今朝までも救えない。
 
こういう人は地獄に落ちていきなさいという意味なんです。 ですから、じぶんは正しいと思っている人は、ざんねんだけど地獄に行ってください。(笑)
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この言葉をほとんどの人は聞き流すだろうが、私はこの言葉がグサッと胸に刺さった。
 
 
私は正義感の強い善人だとずっと思ってきた。なのにそれが一番救われないと書かれている。
 
 
ここ2年ほど精神世界のいろんな本を読んできた。
その中には多くの本に「プラス思考」「マイナス思考」とか、良い思いは良い結果を招くとか書かれているのだが、それはどうしてもきれいごとであるように思えてならなかった。
 
それは世の中には、良いこともあり悪いこともあるが、その悪いことを世の中からなくせば、世の中はもっと良くなるという考え方からくるものである。
 
 
ただそれとはまた別な話であるが、私は自慢ではないが出会い系で500人以上の人とメールのやり取りを経験している。
そして、そこから多くを学んだのだが、人はよく「そんなの常識・・・」というのだけど、実はその常識って、人それぞれみんな違っていること。
 
そしてもう一つ大事なことは、例えば離婚の理由を聞けば、十中八九、相手が加害者であり、自分は被害者だという。
 
でもその内容を具体的に聞くと、どっちもどっちだったりする。
 
つまり「自分の立場」で物事を考えれば、だれだって自分が正しいと思ってしまう。
しかしそれを逆の立場、つまり「相手の立場」に立ってもう一度冷静に考えて見れば解るのだが、相手の立場で考えれば、相手の言っていることも間違っていなかったりする。
 
 
実は「正義感」とはそういうものなのである。
自分の価値判断で、人は善悪を決めている。
 
ところが、精神世界では「創造主」はその悪をも存在を許しているという。
いゃ、この宇宙に「善悪」なんて存在しないとまで言う。
 
なのに我々人類は自分の「価値感」で物事を判断し、自分と反対のものを「」と決めつけている。
 
実は最近まで、私は神からとても大きな試練を与えられていた。
いゃまだ終わったとは言えないのだが・・・・
 
それは私の「正義感」からやった行動を反省させられていることは、これらの本から「知識」としては判ったし、そして「反省」もした。
いゃ、したつもりというのが正しいのだが、そこには「心から反省」というのが欠けていた。
 
そして守護霊から導かれて、ずいぶんといろんなことに気が付いたのだが、人は「自分のおもい」つまり「自我」を持っていて、それで物事を判断する。
 
自我とは顕在意識なのだが、それよりも人には潜在意識というものがあり、それは本来「」とか「内なる神」とか呼ばれるものなのだが、その存在に気が付く人はとても少ない。
 
ましてはその「ことば」に耳を傾ける人は、なおさら少ない。
 
私はよく「自問自答」をしてきたし、その結果いろんな答えをそこからもらってきた。
 
その結果、私のものの考え方は一般的な人の「常識」と大きくかけ離れている。
 
でも、それが「」の本来の考え方であり、またその魂は神の「分け御魂」でもある。
 
言い換えれば、我々が顕在意識で判断する「善悪」「好き嫌い」は本来創造主の考え方にはないわけである。
 
だから、それを自覚できないものが、一番救われないということになり、「正義感」いゃ「正義」など本来宇宙には存在しないものなのである。
 
(資)文化財復元センター  おおくま

自分に厳しい・・・

私は自分で言うのもなんだが「自分に厳しい」方だと思っている。
 
ただ、若いころに別れた女房から「自分に甘く、他人に厳しい」と言われたことがある。
しかし、その時ムカッと来たことを覚えていて、その後さらに自分に厳しくしてきたつもりなのだが、しかし世の中に「自分に厳しく、他人にやさしい」のが理想だと言われるが、現実はよほど悟った人でない限り、難しいと思う。
 
さて、私は自分で自分自身をずいぶんと制しているつもりなので、自分は正しいし間違っていないと信じてきた。
 
だからこそ「正義感」が強いと思ってきたのだが、しかしそういう「自分に厳しい」ものは、現実はどうしても「他人にも厳しい」ものである。
 
正義感とはまさにそれである。
自分で間違っていないと信じるから、自分と反対の行動をするものを、どうしても「」だと思い、それを「」そうとする。
 
しかし、宇宙には善もなければ悪もないように、正しいこともなければ、間違いもない。
 
そしてよく「」という言葉が出てくるが、それは他人に対して愛を注ぎなさいという話になるのだが、いろいろとスピリチュアル系の本を読んでいると、「まず自分を愛しなさい」という言葉が多く出てくる。
 
それは私の「自分に厳しい」ということと相対する言葉の様だが、しかしだからといって「自分に甘い」という意味では無さそうだ。
 
それは「自分に優しく」という言葉に置き換えられるようだが、自分に厳しいものはどうしても他人に厳しいもので、そこには相手を「許す」ということがなかなかできないもので、かくいう私も他人を許すことが苦手な性分である。
 
だからこそ、今回大きな試練を与えられた。
 
どの宗教の教えにも「許す」ことの大切さは説かれているのだが、なかなかその意味を理解できないわけである。
 
よく、相手の嫌いなところばかり目につくと、どうしても相手を悪く言うのだが、自分の意識を変えると、相手の違う面が見えてくる。
 
それを知ることで、自分の相手に対する意識が変わり、その結果相手の態度が変わるというのがこの手の本にはよく書かれている。
津留晃一さんの話には特にこれがよく出てくる。
 
 
我々も「意識改革」をすべてだと思う。
 
(資)文化財復元センター  おおくま

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