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ことば狩り
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最近facebookを見ていて、一定の主義主張を持った人々の考えに共感する部分が多いのだが、特に日本人としての誇りに関わる問題だろうが、靖国参拝についても領土問題についても、中国と韓国の動きに注目されている。
私の世代が受けた教育内容と、この年になってfacebookで耳にする話とがまるで正反対の内容だったりする。
その中で最近目にした言葉の一つに「三国人」という言葉があった。
この言葉は我々の世代では、明らかに差別用語とされていた。
いゃそういう教育を受けてきた。
でも最近の久しぶりにその言葉を耳にし、客観的にその意味を調べてみるとWikipediaには
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第三国人(だいさんごくじん)は、本来は「当事国以外の第三国の国民」一般を指すが、連合国軍占領下の日本においては、官公庁や国会を含む日本人およびGHQが、特に、日本に居留する日本国籍を持たない、朝鮮・台湾などの旧外地の人々を指して用いた呼称。単に三国人ともいう。
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と、記されている。
つまり終戦後、日本に在住する日本国籍を持たない人々に対する俗称として存在したという事らしい。
そうすると、この言葉そのものは語源は決して差別から来たものではないと思われる。
この言葉を耳にして、随分昔のことを思い出した。
現代はネットなくしての生活はあり得ないほど発達しているが、インターネットが普及する以前に「パソコン通信」と呼ばれる世界があった。
PCVANやニフティサーブというネットの中に「写真フォーラム」と呼ばれる同好会があった。
もう20年以上昔と思うが、写真の話に花が咲いていた時、メンバーの一人が「バカチョン」という言葉を使った。
同世代の方ならご存知の言葉だが、当時簡単に撮れるカメラの俗称として「バカチョンカメラ」という呼び名が、一般的だった。
その後、フイルム入りのプラスチック製の簡易カメラで出て、「使い捨てカメラ」という言葉も生まれた。
そんな時代の話題なのだが、もともとパソコン通信の創世記から私はそのフォーラムの世話役の一人だった。
当初は100人、200人規模だったものが、あっという間に2倍、4倍と増え始めた時期、人数が少ないうちは「同志」として同じような考えのものが集まったのだが、数が増えるに従い、志を異にする人々も入ることとなる。
で、メンバーの一人が使った「バカチョン」という言葉に、別のメンバーが「バカチョンとはなんだ!!」と噛みついた。
その噛みついたメンバー曰く「バカチョンとは馬鹿な朝鮮人という意味の差別用語だ!!」といきり立つ。
場が白けてしまったが、彼はその言葉の「語源」を持ち出したのだが、果たしてカメラの話題でそれを使った当人、いゃ当時の写真仲間の誰しもが、果たして朝鮮の人々に対してこの言葉を使ったのか?と言えば、当然違う。
写真の話題としてその言葉は使われた。
使った当人も私もそんな語源だとは知らなかったし、単純に「シャッターをチョンと押せば、馬鹿でも撮れる」というくらい簡単なカメラというニュアンスだった。
この話題はその後も時々蒸し返されたのだが、チョンという言葉が差別用語だとすれば、馬鹿という言葉はどうなんだろうという疑問が残った。
確かに言葉には語源があるだろうが、しかし言葉はその時代時代において違う意味を持つこともある。
そうすると、いつまでも語源を持ち出して、「差別だ!」「差別だ!!」とその言葉さえ無ければ、世の中に差別は無くなるんだと言っているように思えてしまう。
でもそれは違う。
差別を生むのは言葉ではなく、その人の意識だと思う。
逆に言うなら、違う意味合いで使われている場に「差別だ」と言い出すものこそ、実は差別意識を持っているとも言える。
その時、そのメンバー曰く「踏まれたものの痛みがわかるか??」と付け加えたのだが、でもおかしなことに彼はその「踏まれた」立場の人間ではないという。
まさにおかしな話だと思う。
よく、人は「自分が嫌なことは他人にはしない」という。
一見、正しいことのように誰もが思う。
でもよくよく考えてほしい。
人の「価値観」、人の「受け取り方」って、実は一つじゃない。
千差万別なのである。
人の数だけ実はそれらは存在する。
すると「自分が嫌なこと」と、「他人が嫌なこと」は、果たしてイコールなのだろうか?
私は明らかに違うと思う。
人は生まれたまま何も変わらない人はいない。
つまり環境や教育の影響を多大に受ける。
そうすると、すべての人が同じである保証など、どこにもない。
なのに「自分」という物差しに他人を当てはめて、それで判断して果たして正しい判断だと言えるのだろうか?
ぼくだったら、むしろそんな判ったような口は利かない。
世の中にSMという言葉もあるわけで、痛みと快感は実は紙一重でもある。
傷みも度重なると、快感として感じることがあるように、私もずいぶんと苦労をしてきたが、それも度重なると、へこたれるのではなく、むしろ逆に「なにくそっ!!」と、やる気が湧いてくるように最近は変わってきた。
何を痛みと感じ、何を悦びと感じるかは、自分以外の人と神経が繋がっているわけじゃないので、決して自分には正しく伝わらない。
むしろそう考えたほうが、相手を正しく理解できるのではないだろうか?と私は思う。
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