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幣立神宮(赤外線撮影)

今回初めて「幣立神宮」に寄ってきた。

私は全く知らなかったのだが、「出会い系」で知り合ったヒーラーが「幣立神宮の神様から呼ばれて、引っ越してきた・・・・」とか言っていたし、さらにその人と似ている人として出てきた人が、ここで写真を撮っていた。

ネットで調べると、知る人ぞ知る神社らしく、当日も平日にもかかわらず、結構駐車場には車が停まっていた。

(資)文化財復元センター  おおくま
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7917824000470 8063232000472
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知覧特攻平和会館とホタル食堂(赤外線撮影)

以前にネット配信の映画で、俺は、君のためにこそ死ににいくと言うのを見て、ブログで紹介したのだが・・・・

その時にも少し触れたが、実は2013年の暮れに知人から復元費用の問い合わせを受けた。
しかし、その内容はその時明かされず、年が明けてから教えられたのだが、この「知覧特攻平和会館」に残る特攻隊員の遺書などが痛んでいて、その記録のために「入札」があったらしい・・・

生憎他社が落札したらしいが、その時私が内容を知っていれば、費用の話は度外視してでもやりたかった仕事であった。

その後、何度も高千穂や霧島神宮には足を運んだが、知覧にまで行くことをなかなか思いつかなかった。

やっと今回知覧にまで行ってきたが、けいはんなから知覧まで、約1000キロほどある。
全て地道を通り往復したのだが、この平和会館には数えきれないほどの隊員の遺書が残されており、展示されているのだが・・・

すでに戦後70年ともなると、ほとんど読めなくなったものが多い。
それを展示してあったり、あるいは白黒のコピー機で複写したものがケースに収められている。

しかし、私はそれを見ていて忍びなかった・・・・
あの映画の感想にも書いたが、石原慎太郎は彼ら特攻隊員の死を美化しすぎていて、本当の彼らの気持ちとしては「なぜ自分が死ななければならないのか?」そのことが彼らは一番悔しかっただろうと思う。

その本当の彼らの「おもい」こそ、きっちりと後世に伝えなければならないもの。

しかし、会館の展示が読め無くなった遺書や、コピー機でのコピーでは、とてもじゃないが彼らの「おもい」は、見る人に伝わらないと私は思った。

そこで帰ってから、私の仕事の資料をそこの館長あてに送り、ぜひ私にさせてほしいと手紙に書いた。

(資)文化財復元センター  おおくま
知覧特攻平和会館
14488576000068 14561024000069
14706688000071 14053632000061
14198784000063 14416128000067
13475840000052 13620224000054
13908736000059 12898816000043
13043456000046 13115648000047
13259776000049 14779648000072
14996992000075
ホタル食堂
15209472000078 16438528000096
15353856000080 15643136000084
15715584000085 15787776000086
15860224000088
釣りって・・・

私は若い頃から時間を無駄にしたくないとずっと思ってきた。

言い換えれば、私がやりたいこと、そしてやらなければならない事を考えた時、余りにも時間が短すぎる・・・

だから、時間を無駄にしたくないと思ってきたし、思うだけではなく、実際に「即」行動に移してきた。

しかしながら・・・・
どうも「神」はそうは考えていないらしい・・・

ずっとこの前から「」じっと待て!!」と易経で返る。

だけど私の性分では、「待つ」という事は、時間の無駄を意味し、それに従う事はとても「苦痛」を伴う。

しかしながら、人生の「試練」とは、当然「苦痛」を伴うもの。

それにじっと「耐え」でこそ、試練の意味がある。

先日からまた時間を持て余していて。また有料配信サイトで映画を見ていた。

本日その一つ「砂漠でサーモンフィッシング」http://www.hulu.jp/watch/746448 という映画を見た。

私は趣味と仕事として「写真」に関わってきた。
思いついたら「即」実行してしまう性格なのだが・・・

でも仕事に関する範囲では、それが効果を表したためしがない。

で、今日、その映画を見ていて「釣り」とは何ぞや??
という事にぶつかった。

つまり今まで私は「暇を持て余している」人が釣りをするのだと、ずっと思っていた。
だけど、私がこの映画に導かれたという事は、「たまたま」ではなく、必ず意味がある・

そう気がが付いた時、私も「釣り」をする必要性に気が付いた。
私の仕事はとても「忍耐力」を必要とする。
私の忍耐力は並みではない・・・

だけど、それでもまだ足らないと、「神」が言っているのだと理解した。

そこで再度私は、これから趣味として、いゃ人格形成の一つとして「釣り」という趣味を持ってみたいと思う。

(資)文化財復元センター おおくま

新くまらいおん-M
良心的な歯医者さん・その後

先月、いまどき珍しい良心的な歯医者さんを紹介した。

その先生の言われるように、地元の歯医者で、ブリッジを作るために、残っている歯の根っこを2本取ってもらった。

で、ブリッジを作る話になると、残っている歯がかなりぐらついているから、ブリッジをかぶせるときに、抜けてしまう確率が高いと言われ、抜けたら入れ歯しかできなくなると、随分言われた。

つまり、以前に行った歯医者は、ぐらついている歯を先に治療する方法があると言っていたが、地元の歯医者は一切そんな話をしない。

そこで地元で治そうとして歯が抜けたら、元もこうもないので、再度、梅田にあるその歯医者に行ってきた。

今回保険書を作ってあるので、持って行ったのだが、何やら一度そのぐらついている歯を抜いて、歯茎の膿を取って、消毒してまた歯を入れるという事らしい。
その治療は保険でできるらしいのだが、そんな話すら地元の歯医者はしなかった。

で、今回もそのあたりの話を聞いて、抜いた歯の跡が治るのを待って、そこで治療することにした。

で、その先生、まだ若いのだが、この前来た時に10割負担を覚悟で行ったのに、逆に先生の方がレントゲン代を請求しなかったという。
おかしな話だが、その歯医者は地元で治療するように勧めたわけだから、後でレントゲン代を請求できないにもかかわらず、請求しなかったことになる。

で、今日は話だけ聞いて、治療はしなかったのだが、年明けから実際に治療にかかることにしたのだが、今日も治療していないからだと思うが「診察料」すら取らずに「タダ」だった。

その代り、治療を始めてから、保険の負担額だけ、前回のレントゲン代は請求すると言われた。

それにしても、10割負担と3割負担だから、随分と安くつく。

全くいまどきまれにみる良心的な歯医者である。

(資)文化財復元センター  おおくま

新くまらいおん-M

苦労は人を育てる

いきなり、こんなタイトルだが・・・・
私は自分では人並み以上の苦労をしていると自負する。

ただ「自負」するだけで、その比較の対象がはっきりしない。
しかしながら、現代人は「苦労」を極端に嫌う。
苦労は悪だと思っている様子で、出来れば苦労などせずに「楽」して一生を終わりたいと思うらしい・・・

だけど、人の一生ってなんだろう?
自分が生を受けて、棺桶に足を突っ込むまでを、ほとんどの人は「一生」と思っているらしい・・
だとすれば、苦労をせずに楽に死ねればそれに越したことはない。

だけどそれってあまりにも「短絡」過ぎると、私は思う。

「顕在意識」でしか、人は思考できない・・・
顕在意識=現実世界と考えれば、それも間違っていない。

しかし私は、巷の常識を超えたことを多く経験している。
「常識」=「顕在意識」と言って過言ではないが、私は若い頃から「自問自答」をしてきた。
するといつの間にかその答えが返っていることに気が付く。
それは自分で「思考」して得た答えではなく、自分の意識外から返された答えと言える。
何故なら、そんな答え、考えたことも、知識を得たことも無い。
にもかかわらず、その答えが「自分の中」にある。

じゃそれは誰が答えたものか?
それは「潜在意識」が返してきた答えだと私は思う。

その返された答えは納得のいくものだが、巷の常識と大きくかけ離れていたりする。
でもその答えの方が絶対に正しいと、私は確信する。

前置きが長くなったが、我々が思う「現実世界」が本当の現実だろうか?
まずそこから疑わなければならず、我々が目にし、触って確認できる「物質」世界は、実は幻だと言われている。

本当の現実は「目に見えない」「時間が無い」「距離が無い」世界で、本当の自分自身とは「魂」であり。それは輪廻転生すると言われる。

つまり我々が思う「一生」なんて、その一部でしかない。
その一部で「楽」をするか「苦労」するかは、顕在意識の世界で考えられる違いでしかないが、しかしそれが何故「輪廻転生」するのか?
それを考えた時、人の魂はレベルがあり、それらは輪廻転生のうちに徐々に上がる人。全く上がらない人などの差ができる。

その差は我々が思う「現実世界」での努力の違いでもある。
苦労とはそれを磨くための試練と言える。

それを喜んで受ける人、嫌がる人・・・・
その差は何代にもわたり蓄積される。

何故こんな話をするかというと、本日検索項目に「苦労は人を育てる」という言葉があった。
まさしく私が唱えてきた言葉だが、googleの検索結果の第一に私のブログがあった。

一方「苦労は人を育てない」というブログがその次に上がっていた。
書いているのはいかにもエリートと言わんばかりの人。

内容など読む気もないが、彼は「顕在意識」でしか物事を理解できない人だと思う。
自分の一生は一代限りだと思ている人だろう・・・・

(資)文化財復元センター 大隈 剛由

 

新くまらいおん-M

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