易占と共時性
今朝も一つ、易占で聴いてみた・・・・
巷では雪が降っているが、現在わが愛車はスタットレスを履いていない。
近々雪道を走ることはないか?
と、問いかけたら、本卦(ほんか)が「60・水沢節(すいたくせつ)」と出た。
その卦のサブタイトルに「誘惑をしりぞけよ」とある。
つまり、心配事をしりぞけよと言う意味だと思うし、卦辞(かじ)には「無理をせずに節制するなら、道は自ずと開く」となっている。
易経の卦辞も爻辞(こうじ)も具体的な応えが返ることはほとんどないのだが、明らかにこちらの問いかけに可能な限り「言葉」として返されていることがわかる。
之卦(しか)は「58・兌為沢(だいたく)」なのだが、そのサブタイトルに「和合悦楽」となっている。
爻辞(こうじ)は「うたがわしきには近づかない。 悦びには時に毒もある」となっていいる。
それらからすると「心配するな、雪の降る所に近づくな」と言う意味に取れる。
いろいろと、易占の本を読むのだが、一部の本には「共時性」の存在にも触れているが、しかし、それは「どういう形」で、「どの瞬間」に起きるのか?
それに触れたものは何もない。
つまり、もし易占に何らかの「意味のある偶然」が起きるとしたら、それはいつ行われるのか?と言う疑問である。
まず、私は筮竹(ぜいちく)を買ったとき、本来50本で占うものだが、51本入ったまま、知らずに占っていた。
その51本で占った結果と、それに気づきそれ以後は50本で占っているのだが、まったく「応え」に違いがなく、ちゃんと筋が通っている。
それは、ニスのムラがあり、手触りが悪くても、磨いて手触りが良くなろうが、また精神統一されていようが、問いかけてすぐに筮竹(ぜいちく)を切ろうが、まったく違いが起きない。
さらに、例えば、筮竹(ぜいちく)をさばき、二つに割るのだが、易占の本にはその時に「引っかかり」が起きないように注意されているが、しかし実際にやっていて、二つに割ろうとした瞬間に、筮竹(ぜいちく)の1本や2本が、どっちつかずになることがたびたびある。
その瞬間に自分で判断して、どちらかに入れるわけだが、すでにその瞬間には「応え」は決まっているとしか思えない。
そう考えた場合、「偶然」なんて、入り込みようがない・・・
言い換えれば、こちらが易占で「問いかけたその瞬間」には、もう返される「こたえ」が決まっていないと、こういう『意味のある偶然』なんてありえないことになる。
それは占者がどこでミスをしようと、それすらすでにその「こたえ」を出すための計算に入れられていることを意味する。
こんな芸当は、どう考えても「人間業」ではありえない。
さて、私は易占で問いかけて、応えをもらった後に、お礼だけ書いて、また占うことがよくある。
今朝もこの後に「ありがとうございました」とだけ書いて、筮竹(ぜいちく)を切った。
出た卦が、本卦(ほんか)で「58・兌為沢(だいたく)」、サブタイトルは「和合悦楽」である。
爻辞(こうじ)に「本当の悦びは、他人の悦びを自分の悦びとすること。 周りに悦ばれる。」と書かれている。
之卦(しか)は「10・天沢履(てんたくり)」サブタイトルが「虎の尾を踏む」となっていて、一見問いかけに関係ないように思えるが、しかし爻辞(こうじ)には「すべては日ごろの積み重ねであり、運不運も所詮平生の応報に過ぎない。 いかなる異常事態も、冷静に対処するなら案じることはない。」と、書かれているし、ねぎらいの言葉すらある。
(資)文化財復元センター おおくま