「生命の實相・第7巻■生活編 谷口雅春」その2
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誰でも周囲の人々から常に、なんじは不正直だと疑いの目をもって見ていられるか、言葉でお前は不正直だと言われるならば、本当にその人は不正直になってしまうのである。
思想は種である。
間断なくその人の人格へむけてまかれた種子は、ついにはそこに根をおろし、芽を出し、やがて現実の実をむすぶのである。
だから諸君よ、人間を疑うな。 疑っていたとおりにその人がなったとて、それは諸君に先見の明があったためではないのだ。
諸君の飛ばした疑いというバイ菌が、その人に付着して繁殖したので、罪はかえってあなたにある場合が多いということを知らねばならぬ。
人間は神性をもつ。神聖なる人間の心を疑う者は神に向かって罪を犯すものだ。
諸君は人間の心の扉をひらいて、その中の神性をおい出し、疑いや盗賊の像を祭りこむ権利は少しもないのである。
諸君は人間を剣で刺殺したことがないからとて、疑いで相手の人間の神性を刺し殺したら、なおいっそう重大な罪を犯すものである事を知らねばならぬ。
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この言葉を果たして何人の人が理解できるであろうか??
私自身、他人の言葉を鵜呑みにしない性分である。
悪く言えば信じない面もあるが、しかしそれ以上に「自分で確かめたもの」を信じるからなのだが、ある意味これも相手を疑うことと同じであり、私は身をつまされた思いがした。
自分が相手に向けた思考が、相手にとっての現実と化すということも考えなければならないと思う。
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かつて、エルマー・C・:ゲーツ教授は実験によって、怒り、憎しみ、悲哀の感情は人体組織のうちに有害な化学的物質をつくるものであること明らかにした。
そのうちのある物質は、非常に有毒的性質を帯びているのである。
これに反して愉快な、朗らかな喜びの感情は血液のうちに栄養的価値ある化合物をつくり、細胞のはたらきを興奮せしめて新細胞を増殖せしめるものであることがわかったのであった。
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私は内なる神の声をずいぶん聴いているので、憎しみはさほど持たないものだが、しかし怒りは少なからず持つ。
ただその怒りは、自分が正しいと信じてきたので、どうしても曲がったことや、不誠実な人に対して「怒り」を覚えるものである。
ただ、先日も話したのだが、「正義感」とはある意味我欲であり、それが元で相手に怒りを覚えることも、間違いなく我欲の表れだと判った。
それを今回の試練で嫌と言うほど味わう羽目となり、今後怒らないように心がけたいと思っている。
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自己無限の可能性を自覚しないことほど、人間にとって不幸なことはないのである。
彼は自己の心で自分を縛って手も足も出なくしてしまうのである。
自分で自分を縛るほど愚かなことがまたとあろうか。
自分の心で自分を縛っている者には外力でたたせようがないのである。 たたせてやってもすぐ倒れてしまう。
こころの足がフラフラであるからである。
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これは先日から言っているのだが、谷口雅春氏の「神の子」という言葉も含めて、我々は宇宙の創造主の「似姿」に作られた「分身」だと言われている。
その我々に向けて創造主は「愛のエネルギー」を注いでいると言われている。
そのエネルギーは実は太陽の光のように、万人に平等に注がれているのだが、しかし縄文人はそれを知ってその恩恵にあずかっていたが、徐々に人類は「我欲」が強くなり、そしてそのエネルギーの存在すら忘れてしまった。
しかし、現在でもその恩恵に無意識であずかっている者もいて、その人たちは、神の存在を信じていたり、他人に対し「無償の愛」を注いでいる人々なのだが、其のエネルギーは、信じる者には「無限の力」を授けてもくれる。
私はこの前の試練でそれを教えられた。
すべては信じることで、不可能が可能となるのである。
USO800もまさにそれで、作者は「空間エネルギー」が存在するというのだが、それを信じない者にはそのエネルギーは力を与えない。
(資)文化財復元センター おおくま