最近facebookでタレントの顔を、鉛筆で写真と見間違えるほどのリアルに描かれたものや、油彩画などを見かける。
確かに凄いと思う。
私自身それを目指してデッサンに励んだり、グザヴィエ・ド・ラングレ著の「油彩画の技法」と言う分厚い本を読み、古典技術にのめり込んだことがある。
しかしながら、自分のデッサン力が付いて行かず、結局は諦めて、「写真」に転向した。
以前にも書いたが、写真はシャッターを押せば、自分の感覚を活かした作品が創れる。
そう安易に考えての転向だったが、現実はそれほど甘くはなかった。
「感性」を形にするにはやはり「技術」が必要であった。
ただ私は現在の復元の技術もそうだが、写真技術に関しても、専門教育は受けていないし、またどこかのカメラマンに弟子入りしたことも無く、すべては「試行錯誤」で身に付けた。
こだわり性の私は、特に「モノクロ写真」にのめり込み、「ゾーンシステム」の研究を随分とした時期がある。
ゾーンシステムとは「アンセル・アダムス」と言う写真家が、自然界に存在する光の明暗を、写真で再現するための「現像法」なのだが、実際はその自然の諧調をストレートプリントで焼いても、決して感動的な写真にはならず、その技術とプリントテクニックを合わせて、初めて美しいプリントが創れる。
これにのめり込んでいた一時期、私はこの技術を「活かせる」様な写真を撮っていた。
と、言うと、聞こえがいいが・・・
実は「ゾーンシステム」を活かせる「作例」のような写真をずっと撮っていた。
本来、「作品」とは「自己表現」であるのに、その「自己」を磨くことを忘れ、「技術」に振り回されていたわけである。
また少し話は変わるが、当時若い私は国産のカメラを買うのがやっとだったが、金のある医者や弁護士で「写真」が趣味の人は多い。
仕事場の近くの医者に行った時、モノクロ写真パネルが飾ってあり、私も好きだからその医者に話しかけた。
その医者は「ライカ」を使っているらしく、彼はその自分の作品を片手に「このレンズの味が・・・」と自慢し始めた。
彼に限らず、写真を趣味とする人の中には、舶来カメラの「レンズの味」を自慢する人が少なからず居る。
私はそれは本末転倒だと思うのだが、彼らの趣味は写真ではなく「カメラ」なのである。
これは先ほどの「ゾーンシステムの作例」のような写真を撮っていた私と共通して、「レンズの味の作例」みたいな写真を撮っている連中である。
時代は遡り、高校時代に私は美術クラブの部長をしていた。
顧問の先生は当時でも小柄で、男まさりのおばあちゃん先生だった。
その先生に当時言われた言葉がある。
「絵なんてね・・・」「描かなくったって、旨くなりますよ!!」
私はこの時、美大をめざしデッサンに励んでいたが、この言葉を聞いた時、「目が点」になった。
絵は技術が無いと、自分の思っていることを「形」にできない。
だから一生懸命練習しているのに、なんで描かなくてうまくなるの?と、この言葉を理解できなかった。
もう一つ、この先生はほとんどクラブに顔を出さず、部長の私はあまり熱心な先生ではないと思いつつも、作品を見てもらうために、職員室に顧問を呼びに行った。
先生は来てくれて、作品を見てくれた・・・
で…先生は私がその「作品に込めた思い」とはまるで違うところを褒め、全く違う感想を述べた。
その時、私は「この先生…何にも解っていない・・・」と思ってしまった。
それから数年して、私は美大を諦め、設計事務所で働いていた。
ある時、「フト・・・」気が付いたことがある。
そう、その先生の事である。
先生がクラブに顔を出さなかったのは、「自主性」を育てるため・・・
そして、作者と違う感想を言ったのは・・・
「絵なんてねェ・・・見方が一つじゃないんですよ!!」と言うことだった。
つまり見る人の数だけ、見方がある。
最後に
「絵なんてね・・・」「描かなくったって、旨くなりますよ!!」
とは・・・
つまり、大事なのは技術じゃなく、「表現すべきナカミ」つまり「己」を磨けということ。
これはまさに「人生そのもの」で、一つの出来事でも、十人十色で、受け取り方が違う。
また「人生から何を学ぶか?」が、実はそれが「表現すべきナカミ」となること。
そんなことを、私に「暗」に教えてくれた先生は、私が40歳くらいの時、「常磐会短大」の理事長をされていて、その先生と仕事を一緒にさせてもらった時、私はその話を先生にした。
すると・・・
その先生は「そんな事、ありましたっけ・・・」ととぼけられた。
私はその一言を聞き「わたしが師と仰ぐだけの人」だと思った。
つまり、すべては「受け取り方」の問題ですよ・・・・
(資)文化財復元センター おおくま