先日、知人に言われ、神棚を新しくした。
真ん中は数年前に、伊勢神宮の外宮で購入し、今までも神棚で奉っていた札を入れた。
さて・・・
左右は・・・
本来地元の氏神を奉る場所と、反対方向に諏訪大社と、宗像大社を入れることにしたのだが・・・
実は諏訪大社は、連休前に・・・
宗像大社は連休の前半に行ってきている。
神棚を代えることが、もう少し早めに判っていたら、お札を買ってきたのに・・・ブツブツ・・・
後の祭りなので、再度先週の土曜日の午後から、諏訪大社に向かった。
いつもの仕事場近くのガソリンスタンドで、軽油は76円なので、満タンにして出かけた。
諏訪大社まで350キロ・・・
日曜日の朝一に、まず秋宮に行って、近くで230円で温泉に入れる地元のお風呂屋へ向かった。
朝の6時過ぎなのに、何やら秋宮の近くに、ハッピを着た連中が大勢集まっていた。
何やら祭りでもするのかな?
御柱祭りは終わったところなのに・・・
そう思いながら、秋宮の近くに来ると、なにやら「御柱祭り」と書いたのぼりや、ポスターがある。
しかも神社の駐車場や、参道沿いに、屋台がずらりと並び、いつもの駐車場に車を停められない。
慌てて、奥のホテルの駐車場に車を停め、急いで参って、春宮へ向かったのだが・・・
結局通行規制が始まっていて、近づけなかった。
私は写真をやっていたが、一度も御柱祭りを撮りに行ったことが無いから、本宮の御柱祭りと同じ日にすべての宮で行われ、済んだものだと思っていたら・・・
末社は土・日・月と行われるとのこと。
人出が多いのは苦手なので、慌てて本宮へ向かい、お札を貰い、諏訪を後にして、山梨の父親の墓参りに向かった。
そこまで110キロほどだが、墓参りが終わると、また燃料計のランプが付いた。
さて、その付近のガソリンスタンドを覗くと・・・
一律に軽油は97円となっている。
たかいなぁ・・・
と、またいつものように神様に、声に出して「もっと安いガソリンスタンドを探してください」と言ったのだが・・・
いつもこういえば、ほぼ100%の割合で、「地域最安値」のガソリンスタンドが現れる!!イャホンマ・・・・
で、具体的に「90円以下!!」と、はっきりお願いしたら・・・
そこから30キロほど走ったところに、ガソリンの価格表示が、少し安めのスタンドが現れた。
取りあえずそこに入り「軽油はいくら??」と聞いたら・・・・
いきなり「87円」と返った。
早速「満タン」と答えた。
さぁ・・・それから、寄り道をして仕事場に帰り着くまで、燃料は有ったが・・・
常にガソリンスタンドの値段を見ながら走るのだが、嘘のようだが、結局そのガソリンスタンドの「87円」が、最安値だった・・・・ルンルン・・・
(資)文化財復元センター おおくま
いきなり、こんなタイトルだが・・・・
私は自分では人並み以上の苦労をしていると自負する。
ただ「自負」するだけで、その比較の対象がはっきりしない。
しかしながら、現代人は「苦労」を極端に嫌う。
苦労は悪だと思っている様子で、出来れば苦労などせずに「楽」して一生を終わりたいと思うらしい・・・
だけど、人の一生ってなんだろう?
自分が生を受けて、棺桶に足を突っ込むまでを、ほとんどの人は「一生」と思っているらしい・・
だとすれば、苦労をせずに楽に死ねればそれに越したことはない。
だけどそれってあまりにも「短絡」過ぎると、私は思う。
「顕在意識」でしか、人は思考できない・・・
顕在意識=現実世界と考えれば、それも間違っていない。
しかし私は、巷の常識を超えたことを多く経験している。
「常識」=「顕在意識」と言って過言ではないが、私は若い頃から「自問自答」をしてきた。
するといつの間にかその答えが返っていることに気が付く。
それは自分で「思考」して得た答えではなく、自分の意識外から返された答えと言える。
何故なら、そんな答え、考えたことも、知識を得たことも無い。
にもかかわらず、その答えが「自分の中」にある。
じゃそれは誰が答えたものか?
それは「潜在意識」が返してきた答えだと私は思う。
その返された答えは納得のいくものだが、巷の常識と大きくかけ離れていたりする。
でもその答えの方が絶対に正しいと、私は確信する。
前置きが長くなったが、我々が思う「現実世界」が本当の現実だろうか?
まずそこから疑わなければならず、我々が目にし、触って確認できる「物質」世界は、実は幻だと言われている。
本当の現実は「目に見えない」「時間が無い」「距離が無い」世界で、本当の自分自身とは「魂」であり。それは輪廻転生すると言われる。
つまり我々が思う「一生」なんて、その一部でしかない。
その一部で「楽」をするか「苦労」するかは、顕在意識の世界で考えられる違いでしかないが、しかしそれが何故「輪廻転生」するのか?
それを考えた時、人の魂はレベルがあり、それらは輪廻転生のうちに徐々に上がる人。全く上がらない人などの差ができる。
その差は我々が思う「現実世界」での努力の違いでもある。
苦労とはそれを磨くための試練と言える。
それを喜んで受ける人、嫌がる人・・・・
その差は何代にもわたり蓄積される。
何故こんな話をするかというと、本日検索項目に「苦労は人を育てる」という言葉があった。
まさしく私が唱えてきた言葉だが、googleの検索結果の第一に私のブログがあった。
一方「苦労は人を育てない」というブログがその次に上がっていた。
書いているのはいかにもエリートと言わんばかりの人。
内容など読む気もないが、彼は「顕在意識」でしか物事を理解できない人だと思う。
自分の一生は一代限りだと思ている人だろう・・・・
(資)文化財復元センター 大隈 剛由
先月、いまどき珍しい良心的な歯医者さんを紹介した。
その先生の言われるように、地元の歯医者で、ブリッジを作るために、残っている歯の根っこを2本取ってもらった。
で、ブリッジを作る話になると、残っている歯がかなりぐらついているから、ブリッジをかぶせるときに、抜けてしまう確率が高いと言われ、抜けたら入れ歯しかできなくなると、随分言われた。
つまり、以前に行った歯医者は、ぐらついている歯を先に治療する方法があると言っていたが、地元の歯医者は一切そんな話をしない。
そこで地元で治そうとして歯が抜けたら、元もこうもないので、再度、梅田にあるその歯医者に行ってきた。
今回保険書を作ってあるので、持って行ったのだが、何やら一度そのぐらついている歯を抜いて、歯茎の膿を取って、消毒してまた歯を入れるという事らしい。
その治療は保険でできるらしいのだが、そんな話すら地元の歯医者はしなかった。
で、今回もそのあたりの話を聞いて、抜いた歯の跡が治るのを待って、そこで治療することにした。
で、その先生、まだ若いのだが、この前来た時に10割負担を覚悟で行ったのに、逆に先生の方がレントゲン代を請求しなかったという。
おかしな話だが、その歯医者は地元で治療するように勧めたわけだから、後でレントゲン代を請求できないにもかかわらず、請求しなかったことになる。
で、今日は話だけ聞いて、治療はしなかったのだが、年明けから実際に治療にかかることにしたのだが、今日も治療していないからだと思うが「診察料」すら取らずに「タダ」だった。
その代り、治療を始めてから、保険の負担額だけ、前回のレントゲン代は請求すると言われた。
それにしても、10割負担と3割負担だから、随分と安くつく。
全くいまどきまれにみる良心的な歯医者である。
(資)文化財復元センター おおくま
私は若い頃から時間を無駄にしたくないとずっと思ってきた。
言い換えれば、私がやりたいこと、そしてやらなければならない事を考えた時、余りにも時間が短すぎる・・・
だから、時間を無駄にしたくないと思ってきたし、思うだけではなく、実際に「即」行動に移してきた。
しかしながら・・・・
どうも「神」はそうは考えていないらしい・・・
ずっとこの前から「」じっと待て!!」と易経で返る。
だけど私の性分では、「待つ」という事は、時間の無駄を意味し、それに従う事はとても「苦痛」を伴う。
しかしながら、人生の「試練」とは、当然「苦痛」を伴うもの。
それにじっと「耐え」でこそ、試練の意味がある。
先日からまた時間を持て余していて。また有料配信サイトで映画を見ていた。
本日その一つ「砂漠でサーモンフィッシング」http://www.hulu.jp/watch/746448 という映画を見た。
私は趣味と仕事として「写真」に関わってきた。
思いついたら「即」実行してしまう性格なのだが・・・
でも仕事に関する範囲では、それが効果を表したためしがない。
で、今日、その映画を見ていて「釣り」とは何ぞや??
という事にぶつかった。
つまり今まで私は「暇を持て余している」人が釣りをするのだと、ずっと思っていた。
だけど、私がこの映画に導かれたという事は、「たまたま」ではなく、必ず意味がある・
そう気がが付いた時、私も「釣り」をする必要性に気が付いた。
私の仕事はとても「忍耐力」を必要とする。
私の忍耐力は並みではない・・・
だけど、それでもまだ足らないと、「神」が言っているのだと理解した。
そこで再度私は、これから趣味として、いゃ人格形成の一つとして「釣り」という趣味を持ってみたいと思う。
(資)文化財復元センター おおくま
以前にネット配信の映画で、「俺は、君のためにこそ死ににいく」と言うのを見て、ブログで紹介したのだが・・・・
その時にも少し触れたが、実は2013年の暮れに知人から復元費用の問い合わせを受けた。
しかし、その内容はその時明かされず、年が明けてから教えられたのだが、この「知覧特攻平和会館」に残る特攻隊員の遺書などが痛んでいて、その記録のために「入札」があったらしい・・・
生憎他社が落札したらしいが、その時私が内容を知っていれば、費用の話は度外視してでもやりたかった仕事であった。
その後、何度も高千穂や霧島神宮には足を運んだが、知覧にまで行くことをなかなか思いつかなかった。
やっと今回知覧にまで行ってきたが、けいはんなから知覧まで、約1000キロほどある。
全て地道を通り往復したのだが、この平和会館には数えきれないほどの隊員の遺書が残されており、展示されているのだが・・・
すでに戦後70年ともなると、ほとんど読めなくなったものが多い。
それを展示してあったり、あるいは白黒のコピー機で複写したものがケースに収められている。
しかし、私はそれを見ていて忍びなかった・・・・
あの映画の感想にも書いたが、石原慎太郎は彼ら特攻隊員の死を美化しすぎていて、本当の彼らの気持ちとしては「なぜ自分が死ななければならないのか?」そのことが彼らは一番悔しかっただろうと思う。
その本当の彼らの「おもい」こそ、きっちりと後世に伝えなければならないもの。
しかし、会館の展示が読め無くなった遺書や、コピー機でのコピーでは、とてもじゃないが彼らの「おもい」は、見る人に伝わらないと私は思った。
そこで帰ってから、私の仕事の資料をそこの館長あてに送り、ぜひ私にさせてほしいと手紙に書いた。