今回2冊まとめて彼女の本を買った。
1冊目は薄く、活字も大きく、どちらかと言うと短編と言う感じだったが、こちらはソレナリの厚みと、活字の大きさである。
とは言っても彼女の文章は易しく書かれたものが多いので、朝から読み始め、夕方には読み終えた。
彼女の著書にはよく知人の話や、他の本に書かれていた実話が登場するのだが、今回も聞き覚えのある話がいくつか出てくる。
高橋信次の本も言えるのだが、著書が多い人は、時々自分の著書から引用されているものがあり、たまに半分くらいはそういう話だったりする。
彼女も著書が多いので、たまにそういうことも有るが、それより彼女はアメリカの有名な「心のチキンスープ」と言う本に載っている話が出てくる。
この心のチキンスープは、アメリカ版の「ちょっといい話」を集めたもので、シリーズで何冊か出されているのだが、私も以前最初の本と2冊目の本を買って読んだ。
特に最初の本は涙がこみ上げてくるような話が多く、読んだ後ある人にその本を送った覚えがある。
実は今回のこの本を読んで、久しぶりに「心のチキンスープ」のシリーズを4冊注文した。
この本に書かれている「奇跡」とは、ありえないことが起きると言うような大きなものではなく、「気持ちの持ちよう」で、否定的な出来事も「肯定的」な気持ちを持ては、1ミリずつでも奇跡に向かって歩みだすと言う内容である。
私は常々同じ1つの出来事でも、「受け取り方」を変えると、答えは180度変わると言い続けている。
しかし、その受け取り方を変えるってどういうことなのか?また受け取り方ってどうすれば変わるのか? ということが理解できない人が世の中の大半の人々だということに気が付いた。
よく「人は四十を過ぎると変わらない」と言う話を聞く。
それだけ凝り固まってしまうということらしいが、しかし「逆もまた真なり」で、経験を積むことで、それだけ柔軟になれると私は思う。
この本にも出てくる話なのだが、人は「慣れ親しんだ感覚」からなかなか抜け出せないと言う。
つまり「子供のころの経験」は大人になっても、ずっと尾を引いている。
よく「インナーチャイルド」と言う言葉があるのだが、子供のころに受けた傷はそれを大人になってもなかなか癒せないと言う。
私が先ほどの「心のチキンスープ」を送った人も、実はこのインナーチャイルドの影響から脱することができないでいた。
つまり子供のころに親から愛情を注がれていなかったと言う思いが、大人になってもずっと心の奥に横たわっていて、表向きはとても明るく、ボランティア活動に精を出す人なのだが・・・
他人からよく思われれば思われるほど、実は自分の本心としては「わたしはソレに値しない」と言う悲観的な気持ちが頭をもたげてくるらしい・・・
何度も他人の事より、まず自分を癒すことを薦めたのだが、結局忙しさにかまけて、自分のことを後回しにする。
結局悲観的な考え方に偏るものだから、人生はなかなかそこから抜け出せなかった。
この本も、「大事なことは、他人や周りの環境を変えることではなく、自分自身の思いを変えること」だと結論付けている。
津留晃一の話にもよく同じことが書かれているが、結論として「他人は変えられない」「変えられるのは自分自身だけ・・」
(資)文化財復元センター おおくま
彼女の著書は随分読んだ。
彼女も臨死体験を持ち、その後「死にゆくもの」とシスターとしての体験を通しての話も多いが、とても暖かい文体を書く人で、私が精神世界の本を読み始めたころに、潜在意識から導かれた人の一人である。
今回久しぶりに精神世界の本をまた購入した。
きっかけはAmazonがよくメールで送ってくる「おすすめの商品」の中に、久しぶりに彼女の名前があり、そのタイトルの中に「あきらめ」と言う言葉が目を引いた。
最近この手の本をほとんど読まない。
私自身はもっともっといろんなことを知りたいと思うのだが、しかし潜在意識はそれを良しとしないらしく、知りすぎることもまた「執着」に繋がるからなのだろう。
この「あきらめ」と言う言葉は、精神世界で最終的に、人生は自分でコントロールできるものではなく、こだわりや執着を捨て、「無心」で「ゆだねる」ことで、むしろ良い方向に向かうということと関わりが、「あきらめ」と言う言葉にはあるように思う。
つまり諦めることで、執着心を無くす。
執着心を無くせば、欲も無くなる。
欲を無くせば「無心」になり、自分でコントロールしようと思わなければ、「神にゆだねる」こともできる。
元々自分でいうのもなんだが、私は努力を惜しまず、思いついたことは即実行するタイプの人間なのだが、人間の一般常識からいうと、努力を惜しまず頑張れば、必ず良い結果が訪れるということになる。
しかしながら、私の人生を顧みると・・・・
必ずしてそうだとは言い切れない。
むしろ、何も考えない時期に良い結果が現れていたりする。
そのあたりの自分の経験と、いくつかの本に書かれている「無心」「ゆだねる」「あきらめ」と言う言葉は、確かに一致していることに気が付く。
思うのだが、われわれ人間の常識は実は「目に見える世界」で「顕在意識」の範疇で考えものに過ぎず、潜在意識ははるかに広く、はるかに深い・・・
あるいは「宇宙の常識」と言うものがあるとしたら・・・
それは決して我々が思っているような「常識」とは、はるかにかけ離れたものではないかと、私は思う。
「逆もまた真なり」と言う言葉があるが、人は自分の立場や育った環境、受けた教育、接した人の影響を受ける。
しかも「自分にとっての常識」は万人共通だと思いたがるが、全く逆の人もいるし、その人の立場で考えると、それもまた間違ってはいない。
「宇宙の常識」とはそういうものを超越しているように思う。
2009年のドキュメンタリー映画らしい・・・
昨今「温暖化」と言われるが、それは本当だろうか?
また「CO2削減」と言われ、やれ「エコ」だの「地球にやさしい製品」と謳われ、「消費電力」が少ないと、コマーシャルで流され、新しいクーラーや冷蔵庫を買い、燃費のいい車に乗り換え、また「もったいない」と古い自動車を大事に乗り続けるのに、余分に税金を払わされる・・・
果たしてこれらは本当に温暖化防止や地球にやさしいのだろうか??
私は常々疑問に思うし、いゃ疑問どころか、明らかに「騙されている」と確信を持っている。
世の中には「情報」を鵜呑みにする人々が大半であり、単純に「表向き」の省エネを信じる人が多いと思うが、これはあまりにも短絡過ぎる。
例えば消費電力の少ない電化製品や、燃費のいい車に買い替えた時、本来ならまだまだ使える製品を「廃棄」しているわけで、これを完全に自然に返すことはできないし、解体するにも大きなエネルギーが掛かる。
だけど、企業はそんな事知らせないし、政府だってそういう企業をもうけさせるための「補助金」をだし、大事に車を使うものには余分に税金を課す。
その裏に何があるか?
どこが地球にやさしいのか?明らかに矛盾しているのに、多くの人は「便利」に暮らすために、実は目をつぶっている・・・・
これはニューヨークで1年間、どこまでごみを出さず、どこまで省エネルギーで、どこまで地球と体に良い生活ができるかを「実験」した夫婦のドキュメンタリーらしい・・・
亭主は物書きで、それをもとに本を出したり、多くのテレビやラジオやマスコミで取り上げられ、逆に「売名行為」とまで一般人から非難されながら、段階を追って徐々にごみの削減や、地産地消の食物以外は食べない。
新しい製品は買わない・・・
そして半年後から、家の電気のブレーカーを落とし、「電気の無い」生活を半年続けた。
ただ、ソーラーパネルを借りられたらしく、それをアパートの屋上ら設置させてもらい、そこからブログを書くためのパソコンの電源を取ったらしい・・・
で、後半に夫婦が言うのだが「不便」と言うより「楽しい」と思えるようになったとか、四十歳を迎える奥さんは、もう一人子供が欲しいと言う。
亭主は互いの時間のことを考えると、難しいと反対する。
しかし、奥さんの40歳の誕生祝として・・・
モノを送ったのではなく「避妊しない」と言う、金で買えないプレゼントを送ったらしい・・・
結果一度は病院で妊娠を告げられたが、二度目には心音は聴けなくなっていたらしい・・・
でも、この夫婦の1年間の生活をいちいち取り上げなくても、40歳を前にメタボ気味の奥さんのこの生活を始める前の顔と、始めた後の顔をずっと見ていたのだが・・・・
明らかに顔に彫が深くなり、どんどん魅力的な女に変わっていくことが解る。
一年後、ブレーカーのスイッチを入れ、実験は終了するのだが、しかし続けたいことがいくつも有ったり、要るもの、要らないものがはっきりわかったらしい。
何事も「信念」を貫く人は光り輝いている。
1999年の作品らしい・・・
当時私はテレビだか、ビデオで見た記憶がある。
かなりヒットした作品で、食い入るように話の展開を見ていた記憶がある。
そして最後の大ドンデンカエシに思わず当時鳥肌が立った・・・・
久しぶりに U-NEXTでこの作品を見つけ、また見てみた。
ただ今回見ていて、あまり引き込まれることも無く、最後のドンデンガエシも今見ると・・・・
ストーリの展開があまりにもゆっくりしているし、何となく間延びしているようにも思えてくる。
しかし何故そう感じるのか?と言う問題であるが、この映画が上映されて間もない時期に、私は復元の仕事を始めた。
何度も書いているのだが、当時いくつもの不思議な経験をして、それらに導かれるようにしてこの仕事を始めている。
ただ、当時そういう「自覚」はまだなかったと思う。
だから、こういう霊的な話についての知識もなく、シックスセンスまさに「第六巻」、もとい「第六感」と言うものに興味がある程度だった。
しかるにその後は、「目に見えない世界」の存在をイヤと言うほど体験させられているので、そういう世界を肯定はしないが、「否定はできない」と言う風に自分自身も変わってきた。
かと言って、私に霊感があり、この主人公の少年のように「見える」とか「聞こえる」とか「対話ができる」様な能力は備わっていない様で、ただ私は「感じる」と言う形で、何となくわかることがある。
で、「幻臭」と言う言葉をご存じだろうか?
幻覚と言う言葉はご存じたと思うが、本来見えないものが見えるのを幻覚と言い、におわないものが匂うのを幻臭と言う。
私はずいぶん以前から諏訪大社や宗像大社に車で行っているのだが、当時夜中に高速を飛ばして眠くならないように、東技秀樹の音楽をボリームを上げながら走っていると、時々何やら「きなくさい」匂いがすることがあった。
つまり何やら車にトラブルでも発生しているのかと気になり、サービスエリアで車を降り、ぐるりと見ても何も異常はない。
そんな経験が何度かあるのだが、それがいずれ、室内や仕事場でも何やら同じような「きなくさい」匂いがする事がたびたびあった。
どうも同じ匂いなのだが、当時仕事場に二人の女性スタッフが居たので、彼女たちに匂わないかと尋ねても、何も匂わないと言う。
最近はその匂いも余りかぐことも無くなったが、ある時ネットで調べると、何やら霊的なことと関わりがあるようなことを書かれていた。
それからは、その匂いがするときには、「目に見えない存在」が近くにいるものと私は受け取るようになった。
話をこの作品に戻すが、この精神科医は自分が死んだと言う「自覚」が無かった。
何事もそうなのだが「自覚」することは、みんなが考える以上に大事なことなのだと思う。
私は不思議な出来事を不思議だと「自覚」しているが、巷の人々は自覚を持たないから、そういう経験をしても、全く気が付かない人が多い。
日常の出来事を意識を変えてみてみれば、随分とありえないことも多いはず・・・
(資)文化財復元センター おおくま
今日、アメリカ映画の「31年目の夫婦げんか」を見た。
中高年の夫婦の危機を乗り越える映画なのだが、この世代の日本の夫婦を描いた「60歳のラブレター」を思い出し、再度見直してみた。
前回 「60歳のラブレター」
で、それを紹介したが、今回比較する意味で見直してみた。
ストーリー等は、前回のものを参考にしていただきたいが、この物語には3組同世代の男女が出てくる。
その中心となる夫婦は、亭主は定年退職と同時に、離婚し、若い女と暮らし始める。
しかし離婚に同意したとはいえ、夫人は身勝手に浮気を繰り返す亭主ではあっても、心の底では慕っている様子。
30年前に新婚旅行で訪れた金比羅山の近くの写真屋で記念写真を撮ったのだが、その写真、30年後の夫婦のもとに届けられ、そこには夫人が30年後の亭主に宛てた手紙が添えられていた。
その手紙を読み、亭主は自分の身勝手さを自覚し、再度やり直しを試みる・・・
私はただ映画を紹介しているわけではなく、その映画が自分に与えた影響や、何に感動したか?
のあたりの自分の経験を踏まえ、紹介している。
この主人公の夫人・・・
控えめで、口数少なく、自分の気持ちを表に出さない。
実は別れた女房にも似たようなところがあった。
今でいう癒し系の典型であったが、しかし自分の本心を表に出さない。
私は逆で、思った事を口にする。
まさに性格の不一致と思われるが、しかし・・
そんな性格だから、「夫婦喧嘩」はなかなか成り立たなかった。
私は離婚して多くの人とやり取りをする中で、相手のことを確かめもせずに自分勝手に思い込んでいる人が多いことに気が付いた。
喧嘩は誰も好まない。
しかしながら、自分と相手が何が違うのか?それを一番確かめられるのは夫婦げんかだと私は思う。
対立し、衝突して初めて、相手と自分の違いを知る。
これはとても大事なことで、相手のことを確かめもせず思い込み、決めつけていると・・・
結果としていずれすれ違う。
人は十人十色、同じものは二人と居ない。
だからこそ、自分と相手との違いを知ることは、まず第一歩となるが・・・
これを躊躇する夫婦は多い。
ただ、私の経験では、別居になった時初めて女房は「あの時、言われたあの言葉が胸に刺さっている」と初めて言った。
これって・・・
今頃言われても、取り返しはつかない。
この主人公の夫人も30年間、じっと言いたいことを言わず我慢し、亭主はそんな夫人の気持ちも理解しょうとしなかった。
私もまさに離婚して初めてそんな女房の気持ちに気が付いた。
やはり中高年の夫婦にとって、一番大事なことは「いつまでも抱き合うこと」そして「対話をおろそかにしない事」だと、失敗の中で私は学んだ。