3年前の話である。
この復元の仕事は、こちらから資料を送りPRをしても、ほとんど反応は返らないが、逆にうちのホームページをご覧になり、問い合わせてこられる社寺もある。
つまり、こういう技術を必要とされる潜在需要は間違いなく存在する。
この海岸寺は東京の小平市にあり、市指定文化財の茅葺の山門がある小さなお寺である。
ご住職が言われるには、その山門の天井に、確か龍が描かれているという話を聞いているという。
まず住職に写真を撮ってもらい、メールで送ってもらった。
でもほとんど何も見えない。
海岸寺 茅葺の山門 | 山門の天井画 |
僕は時々、僕をこの仕事に導いた4つの神社に参る。
その一つが諏訪大社だが、その帰りに海岸寺に寄り、今までの復元例を原寸大の大型プリントで見てもらった。
さすがにどなたも原寸大のプリントを見られると驚かれる。
で、費用の面もあるので、見積もりを出したが・・・
急には都合できないので検討すると言われた。
ところが、結局1週間ほどで、費用の工面をつけたのでお願いしますと、連絡が入った。
ただ、ご覧の様に天井画を撮影するには状況が悪い。
そのため、ご住職は宮大工に頼み、天井板を分割し山門から降ろし、枠組みを組み本堂横の広い部屋へ設置して頂いた。
立てかけられた天井画 | 額装された復元画 |
現状画像 | 復元画像 |
2年前に復元したものである。
ある人を介し、復元したものであるが、そのお寺、数年前に本堂を建て替えたとの事。
その折、解体した本堂の天井画が捨てられていたという。
元教師の住職は、人柄のいい人で、そのまま天井画が捨て去られるのが忍びなく、夜中にこっそり拾い集め、段ボールに入れ隠していたという。
住職はそれを何とか復元したいと、あるプリンターの会社に勤める檀家の方に、 相談したという。
それがまわりまわって、うちに来た。
住職は自腹を切って、いくつかの天井画を復元した。
しかし、全部で80枚ほどあるという・・・
費用は莫大となり、住職一人の力ではできず、檀家代表に相談したが、なかなか理解されず、残りの貴重な天井画は眠ったままである。
この復元の最大の特徴は、煤にまみれた天井画と、そこに描かれている墨線は、成分が同じ炭素であり、赤外線を使っても分離できない。
ところが、 奇跡が起きた。
幾度も試行錯誤を繰り返すうちに、理屈は良くわからないが、なぜか墨線がきれいに分離した。
復元の仕事を初めて間がないころ、直接受けた仕事ではなく、紹介された修復業者の下請けとして、赤穂八幡宮に伝わる絵馬を復元した。
後日、関西テレビの夕方のニュースの特集として取り上げて頂いた中に、この絵馬は入っており、神社には「大石 内蔵助が書いた絵馬」との記録があるらしく、宮司さんは確かめようと依頼されたとの事。
また復元の仕事を初めて 間がないころで、試行錯誤も本当に初期段階で、今見ると、間違いもある。
絵柄としては老僧と子供たちがじゃれ遊ぶようなものであるが、たぶん何かの故事によるものだろう。
実は数年後に、枚方市の「鍵屋資料館」に同じ内容の絵を見つけたことがある。
左右に文字が書かれていたが、当時はそんな文字すら読めず、遮光を当て、読み取れる影をなぞっていくと、あんな形になったが、どうも誤字が多いように思う。
また左に「満治二」という文字があったが、意味すら分からずに復元すると、その神社の宮司さんは博識のある方らしく「大石内蔵助は満治二年」の生まれとの事。
復元の結果は、本人が描いたものではなく、大石家が内蔵助の誕生を祝い、奉納したものではないか?という話に変わってきた。
それでも大石内蔵助ゆかりの絵馬であることは証明された。
現状画像 |
復元画像 |
2007年から2008年にかけての話である。
この復元の対象物の多くは、社寺などの宗教関係の所有物である。
12年前にこの仕事を始めた当初は、新しい技術であり、すぐに普及するものと考えていた。
しかし、なかなか普及せず苦慮しているのだが、もともと何百年も続くところが多く、保守的であるからこそ現在まで維持されたと思われる。
ただ、この技術を必要とされている社寺も多く、逆にネットからわが社へ問い合わせて頂くところと、こちらから資料を送っても何の反応もないところと極端にわかれる。
しかし、そういう寺社も、 間に「紹介者」があると、話がスムーズに進む。
この話も紹介者が居られ、副住職とよく「そば」を食べに行かれるらしい・・・
この虚空蔵菩薩像は、約1メートルほどの円形の板絵であるが、もともと空海も修業をしたといわれる「求聞持法」と言われる荒行のために、本来は行者自ら描き、これを前にして行を行うものとの事。
しかし、この板絵は、専門の絵師によるものではないかとの事。
また、絵の具のほとんどがすでに剥げ落ちていたが、これは昔法輪寺が火災に見舞われた折、燃えないように「水」をかけて持ち出されたようで、その熱のために剥げ落ちたものと考えられる。
状況がとても悪く、法輪寺から枚方のスタジオへ移動すれば、残った絵の具もはがれる恐れがあるとのことで、法輪寺内の建物の中で、約1か月をかけ、現状画像・赤外線画像・紫外線画像・遮光画像など、800dpiという超解像度の撮影をおこなった。
まず1200万画素のデジカメを、4×5のビューカメラの後部に取り付け、移動しながら撮影し、それをつなぎ合わせたが、とても手間のかかる作業であった。
分割撮影し、つないだ画像 |
現状画像 |
復元画像 |
2007年の話である。
二月の初めに福井県あわら市の浄土真宗・本願寺派「吉崎別院」より、伝「蓮如上人御親書の掛軸」二幅の復元依頼をうけ、約一ヶ月間をかけ原寸大で高精細レプリカ用の、「デジタル画像による復元」作業を行つた。
掛け軸であるが、現状はとても悪く、ほとんど文字が読めない状態であった。
当時・本願寺吉崎別院 輪番「佐々木大圓」氏の談
(吉崎と蓮如上人)
本願寺第8代目の蓮如上人は今から訳530年ほど前、文明3(1471)年にこの吉崎に足を留められた。57歳の時であった。以後61歳まで僅か5年くらいの滞在であったが、虎や狼が住むといわれた辺境の地吉崎は、やがて奥州・出羽・信濃・能登・など7カ国より群集する人々で繁盛する寺内町となり、後の真宗王国北陸の基盤となった。この間、親鸞聖人が著された正信偈を開版し、また日常の勤行としてこの正信偈を拝読唱和することを制定し、自ら「お文」「ご文章」とよばれるお手紙を大量に著されて、大衆に判り易い表現で浄土真宗の教えをひろめ、これまでの弱小な本願寺教団が飛躍的発展をとげてゆく基礎となったのが吉崎ということになろうか。
(掛け軸復元のいきさつについて)
吉崎別院に伝えられる資料等を保存、展示する「資料館」に、蓮如上人御筆とされる「六字名号」と正信偈の一部をうつされた「正信偈文」の2点の掛け軸が存在している。何分にも五百年の時を経過していることもあり、殆ど判読できない状態で今日まで伝えられてきたこの二幅の掛け軸が、往事の面影をしのぶ形で目にすることができないものかと常々思っておりました。時折テレビで遺物の復元された影像を目にする機会もあり、適当な機関があるのではないだろうかと調べてみた結果、今の「文化財復元センター」にお会いできたということです。パソコンでの復元というジャンルは民間では余り例がないのではと思いますが、できるだけ忠実に再現すること中心に、スタッフの誠心誠意の姿勢にお任せしながら、私たちの目に、何十年、否何百年ぶりかに表われる上人の息吹きを心待ちにしている。
・掛け軸に書かれた内容について
二幅の掛け軸はそれぞれ蓮如上人の御親(真)筆と伝えられているものであり、特徴もよく出ており今回の復元に伴う調査で、右下に5ミリほどの大きさの鑑定印らしきものも確認されています。
伝・蓮如上人直筆
六字名号(絹本)
「南無阿弥陀仏」と草書体で書かれています。吉崎以前は「帰命尽十方無碍光如来」の、十字名号が主でありましたが、比叡山延暦寺より「無碍光宗」として弾圧をうけたこともあり、吉崎に移られた頃、草書体の六字名号を書き始めたようです。
正信偈文(紙本)
「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斎廻入 如衆水入海一味」と書かれています。
意味は一例として「よく(能)一念喜愛の心を発すれば(信心よろこべば)煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり(煩悩を絶つことなく悟りを得ることができる)凡聖・逆謗ひとしく(斎)回入すれば(凡夫や聖者や罪の深いものも、阿弥陀仏の世界にうまれば)衆水海に入りて一味なるがごとし(海に入ればどのような水もひとしく塩水となるように)」ということとなります。
今回の復元の最大の特徴は、蓮如上人の筆はこびを最大限復元したことにある。
よく、発掘された木簡の文字が赤外線で読めたと話題になるが、赤外線撮影画像だけでは、コントラストが低かったり、画素数が少ないと輪郭がぼやけていたりする。
しかし、蓮如上人の筆の特徴は、何と言って筆の勢いにあり、かすれや墨の濃淡が復元できなければ、その勢いは表せない。
そこで文字の一文字一文字を拡大撮影し、微妙な濃淡とかすれを表現した。
現状画像 | 筆の勢い | 復元画像 |