- 【ヒトとしてのコストパフォーマンス】
- 2007年01月11日10:02
この話・・・・
17年前なんだけど、「品質÷年齢」っていいこと言ってるな・・・
さすれば、やはり綾は僕をはるかに超えた、「ハイコストパーフォーマンス」と言うことになるな・・・
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巷では、猫も杓子も「ブランド」に走る・・・ワッセ・ワッセ・・・
もともとブランド品は、「品質」が命・・・
またその品質を必要とする人にとっては、それは価値がある。だけど・・・
その品質を必要ともしないのに、金に飽かせて手に入れて悦に入る。
言い換えれば、そんな人にとっては、ブランド品は「オーバークォリティ」だし、本来ブランド品の持っている価値を活かしていないと思うんわけなんよ。で、僕はそれに対して「コストパフオーマンス」を重んじる。
高くてよいのは、当たり前・・・
大事なのは、値段に対する「品質」だと思う。それは一流品である必要もないし、また一流品を所有することが、そのヒトとしての価値をあげることでもない。
本来「価値観」はみんな違うはず・・・
誰かが「良い」と言ったものに、多くのヒトは群がる。
当然、自分にモノを見極める目がないから・・・
大事なのは「自分にとって」という、しっかりした「価値観」をみんなが持つことだと思うよ。「モノ」としての「コストパフォーマンス」とは「品質÷値段」だと思うけど、同じように「ヒト」としてのコストパフォーマンスも存在しないかなぁ?
有るとしたら「品質÷年齢」だといえないかなぁ・・・「オトコは四十を過ぎると顔に責任がある」というのは、リンカーンの言葉らしいけど、オトコもオンナも、四十くらいになるともって生まれた「美貌」は衰える。
だけど・・・
変わりに「ナカミ」が顔を出してくる。ヒトは、生まれたまま変わらないヒトは居ないわけで、「変わる」と言うより「学ぶ」と言うべきだけど、その長い人生で何を学んだか?それが顔に表れる年齢だと思う。
ヒトはみんなこの世に生を受けるには、ちゃんとした「理由」があり「使命」がちゃんとある。
そのことに対する「自覚」が大事じゃないのかなぁ・・・と思ってみたりして「人生のいろんな出来事÷年齢」が本来のヒトとしてのコストパフオーマンスだと思うけど、どうもいろんなヒトを見ていると、必ずしも「亀の甲より歳の功」とは言えない事に気づく。
つまり、もっと大事なことは「経験」を「活かす」事が出来るか否か・・・
そうすると、ヒトとしてのコストパフオーマンスとは、「(人生の出来事×活かす)÷年齢」ということになるのかも・・・
くまさん
コメント
- さくら2007年01月11日 22:24
- こむばんわ
ブランドは気にしません
でも腰が痛いので スニーカーはナイキです。もうすぐ40 どーなるのかなぁ
- コメント
- くまさん2007年01月11日 22:59
- 心配して、激痩せしたりして・・・ちゃうかぁ・・
- ビスコ@静夜思2007年01月12日 11:16
- 顔に責任を持つ ってか 顔にその人と なり が でるんだ・・・
あたしは 自分の顔 好きなんですわ
多少のことでは 揺れませんのよ・・・・・顔がくずれますので(^.^)
- くまさん2007年01月12日 13:02
- >多少のことでは 揺れませんのよ・・・・・顔がくずれますので(^.^)
どういう意味や??
「揺れない」と言うのは、張りがあるという意味に取れるけど、だけど「顔がくずれる」というと、揺れるどころじゃないとも取れるし・・・
- ビスコ@静夜思2007年01月12日 13:30
- あのね 打たれ強いの ってか あんまり動揺しないの
顔がくずれる・・・ってのは 不安とか 疲れが でちゃって
それで顔が くずれるってこと
あはは いつも 抽象的で すんませんね(^.^)
- くまさん2007年01月12日 21:03
- 打たれづよいっうより『糠に釘』っうやつやでぇ・・・
少々言われても、堪えない・・・
- 【行ってきました】
- 2007年01月27日20:37
本日午後から行って着ました。
そして8時前に帰りつきました。さて・・・
成果のほうですが・・・・そう、やはり余り成果が上がりませんでした。
どうも、「催眠術」そのものに掛かりやすいヒトと掛かりにくいヒトがいると言う話はよく聞く。
で、どうも掛かりやすいヒトは一つのことに集中できるヒトとの事だった。
つまり、よく催眠術で振り子を見つめているうちに掛かると言うのがあるけど、それに意識が集中できれば掛かるらしい・・・・ただ、どうなんだろう?今回はそんな振り子も使わなかったけど、「物事に集中する力」は、僕は並以上にあるんだけど、同時に頭に中のある部分では、平行して違うことを考えている自分がいる・・・
まぁ、デュアルパソコンの2つの作業の「並行処理」みたいなもので、何かをやりながら、結構ぜんぜん違うことを考えている事に気が付くわけ。今回も催眠が始まると・・・・
「はぁーーーぃ、どんどん階段を下りて行くと・・・・」と言う話しになるんだけど、実はこのパターンはすでに何度も経験しているわけ。
つまりヘミシンクにはこの手のナレーションが随所に出てきて、今日も「またかぁ・・・・」と思っている自分がいるわけ・・・・・・
だけど、もう一人の僕は必死に掛かろうとしているんよ。
その「心の葛藤」が有るのと、もうひとつは「イメージ」なんよ・・・ヘミシンクも催眠も共通しているのは「イメージして見てください」なんよ・・・
僕はモノを創るニンゲンだから「創造」は得意なんだけど、反面理論派だから「想像」するのは苦手なのかな??
でも、考えて見ると、昔から結構「物思いにふける」のは好きで、例えば何か欲しい品物があったりすると、そのカタログを見ながら「想像」して楽しむ事はとくいなんよ・・・・
そんな事をしていると、いつの間にか、その商品が飽きて結局その商品を買わずに済んでしまったりする。そんな経験もあるから、「想像」も決して苦手ではないはずなんだけど、だけど・・・
どうも自分で自主的に想像する事は得意でも、ヒトから言われてそのイメージを想像するとなると、どうもブレーキが掛かるみたい・・・
そんな訳で、「はぁーーーーぃ、階段を下りると、そこにドアがあります。」「はぁぃ、そのドアを開けると、何が見えますか?」と聴かれるんだけど「なぁんにも、見えるかぁ・・・・」なんよ、実は・・・
言われてそれを想像しょうとしても、なぁんにも「具体的」なイメージが浮かばないんよね・・・それでも必死にイメージしょうとすると、抽象的に「暗い空間」とか、少し「赤っぽい暗闇」とか「明るさが秒単位で、変わる空間」とかその程度なんよ・・・
それでもあえて、何かイメージしょうとすると、ちょうど「夕暮れ時の薄暗い風景」になってしまう。
だって、具体的に細部が浮かばないんだから、ボヤッと暗闇に映る風景としかいい様が無い。また「過去世」に関しても、おんなじことでなんかイメージを思いっきり膨らませても、なかなか具体的に浮かばない・・
そんな感じで1時間くらいかなぁ・・・・
やってもらって、終わってからいろいろ聞いたけど、誰でも最初はそんな感じだと言う話しになった。
ただ、やはり出るヒトは出るらしく、イメージとして外国の風景とか、外国のヒトの服装とかが浮かぶヒトもいるらしい・・・・まぁ、そんなこんなで、大した成果は得られなかったけど、
だけど・・・・
僕のそう言う性格が災いしている事は、今回はっきり判った。
それが一番の本日の成果。で、思うんだけど、物事には必ず「原因」が有って「結果」が有る。
つまり物事を変えようとすれば、必ず「原因」を突き止めなければ、仮に結果が良くなったとしても、それは一時しのぎの「応急処置」に過ぎない。物事を根本的に変えようとすれば、まず「原因」を突き止める事。
原因が判れば、かならず「対処法」は有るはず・・・僕はそう考えるから、今回はっきり原因が突き止められたから、今後はこの「対処法」を探せばよくなる。
で、僕は鵜呑みには出来ないけど、だけど原因が判れば「納得」はできる性格なんよ・・・
納得できれば、信じることもできる。
信じることができれば、ブレーキも外れる。つまり、今後は改善が見込まれるわけ。
チャンチャン!!くまさん
- 【相対的思考・・・】
- 2007年01月29日10:23
最近イャな思いを2つほど続けてした。
両方ともミクシイの「アクセス禁止」処置をされたこと。アクセス禁止って凄いことだと思わない??
なんか、「ストーカー行為」とか、あるいは「嫌がらせ」をしたとか言うのなら解る。
明らかにこちらに「落ち度」が無ければ、本来行われないはず・・・ぼくは常に、世の中には「絶対的な基準」は存在しないと思っていて、有るのは例えば2つの関係における「相対的な基準」だと思うわけよね・・・
一番誰でも判るのは、例えばアメリカとイラクの関係・・・
アメリカは自分が「正義」だといい、イラクはアメリカが「悪」だという。じゃ、どちらが正しいのか?と誰でも考えてしまうけど、実はどちらも正しく、どちらも間違っていると思う。
「自分の立場」で物事を考えれば、「自分の主張」が正しいと誰でも思うよね?
だけど・・・
相手には「相手の立場」があり、「相手の考え方」があり、「相手の受け取り方」があるやん?つまり「一つの出来事」を見た場合、それを中心に180度逆のモノの「受け取り方」があったとしても不思議じゃないはず。
だけど・・・
世の中のほとんどのヒトはその事が解らないらしい・・・
いゃ、こんな話をすると、「そんなことは無い」と必ず反論が出て、「そんなこと、誰でも知っている」と誰かが言うわけ・・・にゃるほどぉ・・・・
確かに一度や二度はどこかでそんな話を耳にした事は、必ずある。
だから「知っている」と誰でも思う。でも・・・
耳にしたから知ってると言うレベルと、「解っている」というレベルは、月とスッポンほど違うとぼくは思うんよ。一つ一つのアクセス禁止のいきさつを話すと、きりが無いのでやめておくけど、問題なのは「自分の立場」でしかものを考えられないヒトは、違う立場のヒトの意見をちゃんと聞こうともせずに、一方的に「拒絶」してしまう傾向が強いと言う事。
自分の主張だけが「正しく」て、相手の主張は間違っていると「決め付け」てしまうという実に考えの狭いヒトが多い。
ちょっと自分の考えと正反対の意見を述べると、「攻撃されている」とか「押し付けないでください」と言い出すわけ・・・
つまり、あくまでも自分は「被害者」なんよ、本人の中では・・・
だからこれ以上攻撃されないために「アクセス禁止」をしたといいたいらしい・・・もし、世の中に「絶対的な基準」が存在し、自分の考えはその基準とマッチしているとしたら・・・
確かにそれは間違いではないと思うよ??俗に「常識」と言う言葉は正にそれに当たるわけで、大多数のヒトは自分は「常識人」だと思っていて、自分の考えとみんなの考えは同じだと錯覚しているから、自分の考えと違うヒトを「非常識」と決め付ける。
だけど、実は「みんな違う」んよね、ものの考え方は・・・
ぼくは「鏡」だと思うわけ、世の中は・・・
「自分を映す鏡」とか「相手に抱いたイメージ」は、実は「鏡に映った己の姿」だと言った事はあるわけ・・・
つまり「自分の潜在意識」が、「相手のイメージを創り上げ」ているといえると思うんだけど、そういう話とは別に、もう一つの「鏡」とは、つまり今鏡を覗き込んでいる自分を「正像」だとすれば、鏡の映った姿は正反対の「虚像」だということになるんだけど、果たしてそうだろうか??つまり・・・・
実は鏡の裏には、自分と正反対の世界が展開していて、今見ている自分の姿こそが、あちらが正像であり、自分はひょっとすると「虚像」では無いだろうか??そう考えたら、「不安」になるよね?
今まで自分が正しいと信じていたものが崩れるとしたら??
もう一度「価値観」を見直す必要性を感じないかなぁ・・・ぼくはそれが大事だと思うわけ・・・・自分の存在を相手に認めさせようとすれば、相手の存在を自分も認めないといけない。
こんな当たり前のこと、これも誰でも知っていること。
だけど、ホントに解っているヒトは非常に稀だと、今回も実感した。くまさん
コメント
- 【本日 学んだこと】
- 2007年01月29日15:26
実は朝から色々と思案をしていた。
昨日も一昨日も、寝ながらヘミシンクを聴いたり、実は日曜日に「催眠CD」を貰って帰って来たわけ。
つまり、「催眠療法」をそのままCDにしたものをどうも売っているらしい・・・
それを、要らないからと貰って聴いていたわけ・・・話し方なんかは正に「暗示」の世界で、やはり「イメージしてみてください」となる。
で、ぼくはその「イメージが出来ない」のが原因だということは、はっきり判った。
で、次はどうすればそれを克服できるか?欠点が判れば直し様もあるし、また自分自身が納得できれば、ブレーキは外れるはず・・・
でも、ただそれを聴いて何とかイメージしょうとするけど、なかなか浮かばない。それの解消法を朝からずっと探していたわけ・・・
で、やはり「イメージトレーニング」から始めようとネットで検索したら・・・・
もうその「イメージトレーニング」と言う一つの単語として、すでに存在していて、スポーツの世界なんかで「イメージ」すれば勝てると言う話になってくる。
あるいは「イメージ」すれば、それが「実現する」とかで、大事なのは「イメージするためのトレーニング」なんよ、探しているのは・・・それがなかなか見つからない。
で、今度は「イメージ力」とキーワードを変えた。
すると少しは具体的な話になってきた。
どうすればイメージ力を鍛えられるか?
すると「七田式・右脳開発」なんてホームページに出くわした。そこでは、少しは「具体的」な方法が述べられていたり、「教材」と題していくつかのCDが出ている見たい。
そのイメージトレーニングCDなるものが数枚出ていて、「試聴」出来たりした。
早速聴いてみると・・・
「はぁぁぃ・・・目の前に真っ青な海が見えます」「海にはかもめが飛んでいます・・・」と下手くそな本人のナレーションの入ったCDなんよね、それが・・・そりゃ・・・具体的な風景をイメージしやすい様に作っては有るよ?
だけど、だからといって、それをわざわざお金を出してまで買おうと思えない。で、ふと気が付いたんだけど、「そうだ・・・朗読だ!!」と・・・
昔、「ラジオドラマ」なんて、今では死語の世界だけど、そういうのがあって、胸をときめかしながら聴いたよね?
そうや、あれなんや・・・・
あの「音」の世界だけなのに、聴いていると目の前に「情景」がありありと浮かぶやん?ぼくは本をほとんど読まない・・・
もちろん時々は専門書は読むけど、文学書と言うか小説の類は、若い頃に少し文学書を読んだことは有るけど、最近は一切無い・・・ぼくは本から「知識」として得たものより、自分が「思考」して得たものの方が価値が有ると思っている。
だから、本を読む暇があると、自分の頭で物事を考えている。それがぼくの「主義」なんだけど、年末にあるヒトと数時間はなす機会が有って、彼女とぼくとは不思議なほど考え方が似ている。
だけど、似ているから逆に「細かい相違点」が気になる。
その人と話をしていて、言われたのが「自分で考えることも、本を読むのも、どっちも大事」という事。
確かにそれも実感は最近していて、結局「内なる自分」に問いかけていた答えが、「本」を見ると載っていたりすることがある。
そういう意味で、本を読むことの重要性も判っては来た。ただ、今日気が付いたのは、その話ではなく、「文学」というのかなぁ・・・
つまり「文字」による表現・・・・一方ぼくは「写真」という、正に「視覚」に訴える芸術をしている。
すると、いつの間にか「目」と言うか、「視覚」はどんどん研ぎ澄まされるけど、そのものが「直接的」だから、「画像をイメージ」する必要が無いわけ・・・・
それにどうも僕自身が慣れ過ぎてしまっているみたい・・・つまり、例えば「テレビドラマ」は直接目に訴えてくるものだから、「画像」としては想像する必要が無い・・・
それに比べ「ラジオドラマ」は画像が無いから、それを「思い浮かべる」必要性がある。そう考えたとき「文学」には確かにそういう「想像力」が必要なんだと気が付いた。
そうや、朗読やぁ・・・・
そう思ってネットで検索すると、あるうある・・・・
MP3でダウンできる文学書がわんさとある。これや、これなんや・・・・
これを目を閉じて聴くことにより、自分で情景を想像出来るようになるはず・・・やっぱり自分に問いかければ、必ず「内なる自分」が答えを返してくれる。
くまさん
- 【12人の怒れる男たち】
- 2007年04月04日19:46
昨日BSで50年前の映画をやっていた。昔たしか「日曜洋画劇場」で見た覚えがある。
当時はまだ若かったし、今ほど物事を深く追求しなかったから、さほど記憶に残っていなかったんだけど、ストーリだけは他でもいろいろ聞いていて知っているんよね・・・もうじき日本でも「陪審員制度」が始まるらしいけど、僕はあれをどうかと思っていたんだけど、その裏にはこの映画のこともあった。
内容は一人のスラム街の少年が、父親を殺した罪で裁判に掛けられ、それを裁くのが一般市民12人の陪審員で、その判決を下すまでのなんか1時間半ほどの間のやり取りの映画なんよ。
で、どうも「全員一致」でないと、判決が確定しないらしく、11人が「有罪」だとしたが、ただ一人「無罪」だと言い出すわけ・・
それが、いずれ映画の終わるときには全員「無罪」と変わるわけ・・・
別にそれがどうした?と言えば、それまでのことなんだけど、僕は常々思っているのは「人が人を裁けない」と思うわけ・・・なぜなら、その裁定の基準は絶対的なもので無ければならないはずなのに、実際に人を裁く「裁判」では、裁判官が変われば、判決は180度変わる。
早い話が「法の解釈」だと言うけど・・・でも、世の中の基準とすべき「法」って、そんな「解釈の仕方次第」で、コロコロ変わっていいものか?と思う。
そんな「曖昧」な基準で、その人の一生を左右する権利は、同じ「人間」にあってはならないと思うわけ・・裁判どころか、法の「番人」の警察そのものが、いかにいい加減な連中が権力を行使しているか?
少なくても、裁判官とか警察、それと特に「弁護士」と呼ばれ連中は「法」を飯の種としか考えていない輩が非常に多く、「正義感」が欠けた連中が、高い給料をもらって「特権意識」をむき出しにしていたりすると思う。
そんな「法のプロ」でさえ、非常に曖昧な基準で人を裁くのに、それを一般市民の判断に委ねるとなると、もっととんでもないことが起きると僕は思う。
コメント
- さくら2007年04月04日 21:59
- 高学歴で机の上で勉強ばかりして人だけが人を裁くのは恐ろしいと思うよ・・・
曖昧だからいい部分もある、だってパターンは無限にあるから。
自分の快楽で人を殺した人とどうすることも出来ない状況で人を殺めた人は違いがあっていいと思うし極端なこといえば人が人を裁けるかって問題になると思うんだけど、ないともっと大変なことになる
曖昧がいいこともあると思うんだわさ。