【バッテリー切れ・・・】
僕はその後、ずっとその「東儀秀樹」のCDをいくつも買い、仕事中はおろか、寝ているときでも小さい音で枕もとで流しながら、寝ても覚めても、その音楽を聴いていた時期がある。
それって、僕は努力家だから、人生のほとんどを「写真」に捧げていて、一日中「写真がどうすればうまくなるか??」とかずっと考えていたわけ・・・
つまり、悪い言い方をすると「気持ちに余裕がない」状態だったわけよ。
でも、自分の好きなことを「一生懸命」考えたり、やったりしているのだから充実しているはずだよね・・・
これって、ちょうど僕らが若いころ、テレビに出てくる、歌手やミュージシャンがよく「充電のために休業する」とか言う話が合ったんだけど、これって綾はどう思う??
つまり、自分のやりたいことをやっている連中に、「充電」なんて必要か?
と言う話なんよ・・・
実は「好きなことをやる」と言うことは、エネルギーを「放電」していることと一緒なんよ・・・・
何れバッテリーが切れてくるわけ・・・・
だから好きなことを「やり続ける」ためには、「充電期間」が必要なんよ!!
僕もあの時、「バッテリー切れ」を起こしていたわけよ・・・
写真に対する意欲もなくしてたみたい・・・
そんな状態で、寝ても覚めてもずっと「ヒーディングミュージック」を聴いていると、ちょうど砂に水がしみていくようなもので、少しずつ・少しずつエネルギーが回復してくるわけ・・・・
人間て、いくら好きなことばかりやっていても、気持ちに「余裕」が無いと、やりつづれられないんよ!!
その「エネルギー源」って、実は「無駄な時間」を過ごすことで得られたりするわけ・・・
だから僕も普段は「音楽」を聴いたり「映画」を見たりして、補充しているわけ・・・
これって別な言い方をすると、「人生」ってまっすぐ過ごすことより「回り道」することの方が、その人に「味」をあたりたりするんよ…いゃホンマ
くまさん
【中華料理】
僕は前に話したように6人兄弟なんだけど、上の二人と下の四人は父親が違う。
その件はちょっと置いといて、一番上が長女で次が長男なんだけど、僕らが離婚して大阪の親戚の家に居候して、新しい生活は始まったんだけど・・
その時僕は小学校の5年生だったんだけど、その小学校に転校してきた時は、僕は「遠藤」と言う苗字だったんだけど、つまり「大隈」と言うのは母親方の苗字。
それから数か月して、離婚が成立して苗字が「大隈」に変わったんだけど、その時母親が授業中に僕の担任に会いに来た。
しばらく外で話していたんだけど、それから・・・・
クラスのみんなに、「今日から遠藤君は大隈君に変わります・・・」と言った。
その時、子供だった僕はとても恥ずかしい思いをした。
で、少し話は変わるけど、僕自身が離婚したとき、息子が二人いたんだけど、嫁さんとの話し合いで「親権」は嫁さんに渡すけど、子供の苗字は本人たちが大人になって「自分の意思」で、苗字を変えると言い出すまでは、「大隈」で通すように・・・
と、条件を付けたんだけど、嫁さんは前にも言ったように、自分の実家を継ぎたかったわけだから、自分だけは離婚後すぐに苗字を「飯倉」に戻した。
でも、同じ飯倉の実家で子供たちを育てたけど、子供たちの苗字は「大隈」のまま残していた。
つまり、僕が子供のころに味わった恥ずかしさを子供には味わいさせたくなかったから・・・
話を戻すと、前に言ったように、母親は体が弱く、あまり働かなかったから、結局上の二人が働いて僕らを支えていたんだけど、長男は京都の有名な「中華料理店」に住み込みで入った。
料理の世界は「まかない」付きだから、自分の食費は要らないわけ・・・
その京都のその店には、京都には「太秦」と言う撮影所があり、「映画スター」がよく来ていたらしい・・・
で、兄は次にその店を辞めて、大阪の「北京飯店」と言う北京料理の店に入ったらしい・・・
そのころ兄が言っていたんだけど、最初の京都の中華料理店って、はっきり言ってまともな北京料理とは言えなかったレベルらしい・・・
それから兄は何軒かの料理店を渡り歩いたが、どうも中国人のコック長に特別に目を掛けられたり、コック長が中国に還るときに一緒に来ないかと誘われたりしたみたい・・・
それからまたいくつか店を変わり、最後に「西宮」の「萬壽亭」と言う店の「雇われコック長」になったんだけど、僕の結婚式の披露宴はその店でやった。
それからしばらくして、兄はその店を買い取り「オーナーシェフ」となった。
兄弟想いの兄は、よく家でも中華料理を作ってくれたり、正月のおせち料理には中華料理の折りを持って帰ってきて食べさせてくれた。
そんなわけで僕は中華料理は大好きなんだけど・・・
どうも話を聞くと「北京料理」とか「四川料理」とか「広東料理」とかの違いがあるらしく、高校生のころ、僕も夕方から「広東料理店」の皿洗いをしたことがある。
で、客が食べた皿が返ってきて、僕が皿洗いをするんだけど・・・
料理が結構残っていたんよね・・・
僕はそれをつまみ食いしたんだけど、僕から見ればおいしいと思ったんだけど・・・
後から兄に聞くと「広東料理は日本人の口に合わない・・・」とのことだった。
で、兄がオーナーシェフになった「萬壽亭」は、西宮は結構生活レベルの高い街で、近くに「芦屋」なんかもあるけど、その店、結構地元では「高級料理店」として有名だったんだけど、「3.11」の大震災で周りのビルがずいぶん倒れたんだけど、その店の入っているビルの被害は少なかった・・・
だけど・・・
結局震災の影響で、客足が極端に減り、兄も「脳梗塞」で倒れ、店を閉じ、今では嫁さんの実家の鳥取県で暮らしている。
確かに兄は兄弟想いで、僕ら兄弟の面倒を見てくれるんだけど、やはり僕とは考え方が合わないね・・・
僕が写真の世界であまり食えていなかったから、「写真なんかやめて、俺がラーメン屋を出してやるから、ラーメンでも作れ」とずいぶん言われたなぁ・・・
くまさん
【おくりびと】
綾は邦画の「おくりびと」と言う映画を見たことがあるかな??
かなり有名で、海外でも有名な賞を撮っている作品・・・
僕は園芸高校の卒業生なんだけど、実は長女の旦那もそこの卒業生だった。
彼の紹介で「造園設計」の事務所に入ったんだけど・・・
仕事は個人庭園ではなく「都市公園」の設計だったんだけど、高校時代は絵をかいていたし、卒業後も夕方から「美術教室」に通っていたり、それから「写真」を始めたんだけど、全然仕事に身が入らなかった。
6年間務めたけど、給料は元々安いうえに、あまり上がらないし・・・
そこを辞めて「写真館」に入ったんだけど・・・
たまたま入った写真館が、兄貴の店のすぐ近くだった。
元々趣味で写真を始めたけど、若いものだから「プロ」に憧れていたわけよ。
で、そこは引退した爺さんと、今の社長のほかに、先輩の従業員が3人で、同期が僕を含めて二人いた。
仕事は結婚式場の「婚礼写真」とか、「学校アルバム」とか「葬儀スナップ」などの撮影のほかに「遺影」も作っていた。
で、前に僕が仕事中に父親が死んだと話したけど・・・
実は僕が仕事で「葬儀スナップ」を撮りに行っていた時、先輩がそこに現れ、「仕事を変わるから早く帰りなさい」と言ったんだけど、その時「大隈君のお父さんが亡くなった」と言い出した。
その時僕は「はぁ、父親って誰の事??」と思ったんよ・・・
つまり父親とは大人になってから会ったことも無かったし、全然「父親」と言う感覚もすでになかったんよ・・・
それから、僕たち兄弟と母親は、関東に住んでいた父親の葬儀に参加したんだけど、僕は仕事で「葬式」の記録写真を撮っていたからだと思うけど・・・
父親の葬儀でも全然悲しくなかったし、むしろプロ意識をもって「父親の葬儀写真」を撮ったりしてたんよ・・・
それが僕が24歳の時の話だから、すでに50年近く前の事なんだけど、この「おくりびと」っていう映画、僕が離婚する前あたりかなぁ・・・
つまり25年ほど前の映画なんよ・・・
でそのころ僕は「写真撮影」の仕事が「デジタル」の普及に伴い、ずいぶんと減っていたんで、Macを買って「遺影」をデジタル合成の仕方を、「試行錯誤」で開発してそれを始めた・・・
それから何軒かの「葬儀や」の仕事をしたんだけど・・・
ちょうどそのころにこの映画をテレビで見た。
でも、「葬儀の世界」って映画で描かれているようなものではなく、葬儀屋と花屋って、実は「部落民」なんよ、ほとんど・・・
えげつない連中で、例えば「骨壺」などを遺族に売るとき、仕入れ価格の2倍・3倍は当たり前の世界・・・
当然「遺影」もかなり上乗せされているような世界、やくざと繋がっている連中も居たりした。
で、話を戻すと・・・・
その映画って、オーケストラのチェロ奏者から、田舎へ帰って葬儀の「納棺士」になった話なんだけど、女房や友達からも「そんな仕事辞めて!!」と言われながら仕事を続けていたら、その会社の事務員が「お父さんが亡くなった」と彼に話した。
すると、彼も僕と同じように離婚した家庭で育っていて、「父親??」と言う感じだったんだけど、結局女房が「納棺士」と言う仕事が立派だということを認めたから、その父親の葬儀場へ行った。
そして彼は父親の納棺をした・・・
そういう話なんだけど、これってまさに僕が葬儀スナップの仕事をしているときに「父親が亡くなった」と知らされたこと。
そして、僕がプロ意識で「葬儀写真」を撮ったことと、彼が父親の納棺をしたことって、ぴったりと重なるんよ・・・
世の中に偶然は存在せず、あるのは「必然」だけだと言われている。
それからまた別な話だけど、離婚して僕はネットの出会い系で多くの人のプロフィールを見ていたんだけど、普通そんなところは「きれいごと」の「嘘八百」が並ぶんだけど、その中に「私は遺体の「洗い」の仕事をしています」と、堂々と書いている女性が居た。
彼女「遺族からとても感謝されます・・・」とその仕事に誇りを持っていたんだけど、僕はその人を「ちょっとなぁ・・・」と思って敬遠したんだけど、後になって彼女のあの、人が嫌がる仕事をプライドをもってやれる人ってすごいなぁと思った覚えがある。
くまさん
【恩師の話】
昔は学校の教師を「先生」と呼んでいたよね・・・
医者や弁護士やら、そういう「肩書」を持った者たちは、自分たちの中で、互いに「●●先生」とか「××先生」とか自分たちで「先生」と言う言葉をつけるのを好むんだけど、ガッコの教師も互いに「先生」と言う単語をつけて呼び合う。
「先生」って、国会議員などもそうだけど、「権威付け」で呼んだりするけど、僕はそういうのが嫌い・・・・
で、そんな中「恩師」と言う言葉は特別で、自分が世話になったり尊敬できる人に限って呼ぶ呼び名なんだけど・・・
卒業して当時の「教師」達を省みると、とても「恩師」などと呼べるものなどいない・・・
だけど・・・
卒業後「恩師」と呼ぶべき人だったという人とは一人だけであっている。
僕が落ちこぼれのいく「園芸高校」に入ったのは、そこに「園芸科・デザインコース」と言うのが新設されたから・・・
1年生の時、僕は美術部に入ったんだけど、その動機は不純なもので「きれいなバラ」等の絵が描けたら、持てるだろうなぁ・・・・」オイオイ
ツウくらいだったんだけど、クラブの顧問で美術の教師は、とても小柄でいつもズボンをはいているおばぁちゃんだった。
その先生が美術の授業の時、騒いでいた男子生徒に向かって「バカモーーーーーン!!」「出ていけ!!」と大声で叱ったんだよね・・・・
そんな小柄なおばぁちゃんなのに、男勝りの人だったんだけど、その先生、クラブでは僕らの事を「ちゃんと大人扱い」してくれたんだけど、その顧問はほとんどクラブには顔を出さなかった。
で、僕は先生に僕の作品を批評してもらいたいから、職員室に呼びに行った。
で先生は来てくれたんだけど、作品を作者の僕が思っているようなところを見るんじゃなく、まったく別なところを褒めたりしてくれたわけ・・・・
そうすると・・・・
「この先生、大丈夫かな??」と心配になってきたわけよ・・・
そこで僕はそんな先生を当てにしないで、自分がみんなを引っ張ったんだけど、2年になって「部長」に選ばれた。
夏休み明けに、大阪の天王寺美術館で「高校展」と言うのがあり、府下の100校ほど参加していたんだけど、僕はそこで賞をもらったり、それがきっかけでテレビに出たりした。
その後卒業をして数年たったころかなぁ・・・「フト」その先生の言われていたことの意味が分かった!!
先生がほとんどクラブに顔を出さなかったのは、僕たちの「自主性」を育むため・・・
そして、作品を見てもらったときに、作者の意図とは「全然違う見方」でほめてくれたことは、実は「作品って、見方が一つだけじゃないんですよ!!」と言うことを教えるためだったと、数年たって「気が付いた。」
その後僕は結婚して、その先生は高校の教師を辞めて、「短大の理事長」をしていたんだけど、僕はそこの「学校アルバム」の仕事をさせてもらった。
その時、先生と一緒に還り道に食事をおごってくれたんだけど、その時僕は先生に「僕は高校時代に先生からこんなことを教えられた・・・」と、さっきの話をしたんだけど・・・
すると先生は「やっと気が付きましたか・・・」と言うのではなく、「そんなこと、ありましたっけ・・・」と、とぼけられた。
それを聞いて、僕はこの人こそ「恩師」だったと気が付いた。
どういう意味かと言うと、僕がその先生から「教えられた」と思ったことは、実は僕が自ら「学んだ」事であり、私が意図してそれを教えたわけじゃない」と言う意味なんよね・・・
その先生、高校時代に、高校では「美術」を教え、その短大では「哲学」を教えていたらしいし、その先生の実家って「お寺」なんよ・・・
それだけ「意識レベル」が高い人だったから、僕はその人から大事なことを学べたわけ・・・
それからまたかなりの月日が流れ、その先生も亡くなったんだけど、高校の同級生数人が集まり、一緒に吞んだ。
高校時代に、僕にはおんなの「悪友」が居て、早弁していると、僕の弁当をつまみ食いしたり、「くまぁ・・・一緒に授業をさぼらへんか??」と誘いに来るわけ・・・
僕は授業はさぼってもいいけど、クラブはさぼりたくなかったんだけど、それでも時々大阪の梅田に出て「ジャズ喫茶」でさぼったりした仲間が、その久しぶりに飲んだ時、彼女も変わり者だったんだけど、その先生が「浜田さん!!面白い絵を描くね・・・」「美術部に入らない??」「浜田さんの好きな大隈君が居るよ??」と誘われたことがあるって言ったわけ。
ただそれだけならたいした話じゃなかったんだけど・・・
その時先生は「大隈君が居るから、ここで教師をしているけど、彼が卒業したらここを辞める」って言っていたらしい・・・・
つまり、その先生も実は僕の事ちゃんとわかっていて、見守ってくれていたということ!!
なのに、前に言ったように「そんなこと、ありましたっけ・・・」ととぼけられたわけよ・・・・
それだけ奥の深い先生だったからこそ、僕は「恩師」と呼べるし、またその先生との出会いが無かったら「今の僕」は存在しなかったわけよ・・・・
それくらい「出会い」って、意味のあることなんよ・・・
くまさん
【出会い系詐欺】
巷ではよく聞く話だけど、結婚詐欺に引っかかる人が結構いるらしい・・・
まぁ、結婚詐欺まで行かなくても「ネットの出会い系」で詐欺にあう人も多い。
そこで出会い系サイトの経営者は「間に入り」、直接のメールやり取りを禁止したり、あるいは「身元証明書」を提出させたりして、いかにも「詐欺防止」をしているように見せかけて・・・・
高いサイトの使用料をぼったくっているんだけど、実際にはほとんど効果はない。
で、こんな僕でさえ、一度だけそんな詐欺女に引っかかりそうになった。
それは「外国女性」なんだけど、相手からメールが入ったんだけど、その相手と僕との因果関係が全然ないんよ・・・・
それでもやり取りをしてみると「自分は海外の石油掘削会社のCEOだ・・・・」とか言って、そのネットの「サイト」を知らせてくるんよ・・・
で、見たらかなり大きな会社で、従業員が数百人いることになっているんだけど、自分は日本の海上で掘削の仕事で来ているというわけ・・・
で、ちょうど年末だったんだけど、「日本を旅行したいから案内してほしい」と言い出したわけよ・・・・
でも僕は金はないよと言うと、お金は自分が出すから、旅行の工程とホテルの予約をしてほしいというわけよ・・・
まぁ、相手が金を出すんだったら・・・・と工程を組んで1週間分ほどのホテルの予約をネットで入れた。
だけど・・・
おかしなことに、彼女との待ち合わせ場所が、相手が指定した東京のホテルなんだけど・・・
そこに確認すると・・・
彼女の宿泊の予約は入っていないわけよ・・・
で、彼女にそれを告げたら・・・「会社の名前で予約している」とかいうんだけど、どうもおかしいんよ・・・・
で、旅行の予定が近づいたとき、急に「年末で銀行から得意先に支払うお金が下せない」とか言い出すわけよ・・
で、「銀行が開いたら返すから立て替えてほしい・・」と言い始めた・・・
これって完全な「詐欺」だよね・・・
つまり自分は資産家だと言って近づき、結婚話をして式場の予約などを済ませた後に、「急に仕事の金が要るようになった・・・」と切り出すパターン。
で、おかしいと思って、ネットで彼女の会社名を検索すると「詐欺」の前歴が出てきたり、第一そんな大きな掘削会社のCEOが、直接日本の現場に来て仕事をするか?
それに、そんな会社のCEOともあろうものが、手元に「はした金」を持っていなかったり、用立てる方法が無いはずがないやん・・・・
まぁ、キャンセルしたんだけど、ホテルの予約って日にちが近づくと「キャンセル料」がかかるから、ちょっと話がおかしいと気が付いた時点で、すぐにキャンセルを入れたから、こちらには「実害」が無かったんだけど・・・・
ネットの出会い系で、この手に引っかかる馬鹿な男女が多いらしい・・・
で・・・
綾の話だけど・・・・
綾は出会い系じゃなく、facebookからコメントが入ったけど、確かにfacebookで友達申請してくるものって、はっきりと「詐欺目当て」のものが多い・・・
だけど、それはすぐにわかるから削除するけど、綾はちょっと違っていた・・・
まぁその後やり取りした綾の文章を何度も読み直すけど、矛盾点は無い・・・・
ただ送ってきた「写真」は嘘だよね・・・・・
で、前にも話したけど、僕は「見えない世界」とのやり取りで「易占」を使うことがあり、何度も綾の事を占ったけど・・・・
良い卦は出ても、悪い卦は出ないんよ・・・
つまり「見えない世界」から見ても決して心配するような相手じゃないということ。
それにもし詐欺だったら・・・
ツィッターの僕の記事など読むはずもないし、僕自身をブロックするか削除しているだろうね・・・・
くまさん