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「いかにして神とであうか」クリシュナムルティ・著

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これもまさに「」についてなのだが・・・・・
 
この著者クリシュナムルティについては、時々Amazonで見かけるのだが、今まで読んだことはない。
 
今回「」について検索した中で出てきたので、始めて読んでみた。
 
この作者、確かにただモノじゃない・・・・・
彼が言うところの神も、そんじょそこらにいる「内なる神」とも違う。
 
 
 
そのむずかしさは、半端じゃない・・・・
 
どうも彼も神は間違いなく存在するが、それは「真理」として、我々が考える宗教の範囲にはない。
 
いゃ、宗教どころか、「信仰」の対象としての神でもなく、神を私のように探し続けている限り、真の神には巡り合わないと言う。
 
確かにそう言われると、解るところもある。
 

精神とは、我々がすでに知っているものの事である。 そして既知なるものとは、我々が経験したもののことである。 その既知と言う物差しを使って、我々は未知のものを知ろうとしている。 しかし、既知すなわち精神には、未知のものを知ることは明らかに不可能である。 
 
既知は、すでに経験されたり、教えられたり、収集されたりしたものしか知ることができない。
 
そこで、はたして我々の精神は、自分が未知のものを知ることはできないということを理解することはできるだろうか?
 
たしかに、もし私の精神が未知のものを知ることができないのだと言う事実を極めてはっきり認識したならば、そこには絶対的な静寂が生まれるだろう。
 
反対にもし私が既知の能力をもって、未知のものを据えることができると感じたならば、とても騒ぎ立てるに違いない。
 
……・・・・・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
知的探求という行動は、知っているものから知っているものに対してのみ可能である。
 
そして精神にできることは、この探求行動によって我々はけっして未知のものを知ることができない。という事実に気づく事だけである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
精神が空で静かな時、完全な無の状態にある時、空白ではなく、実在の対極でもなく、全ての思考が消滅したまったく普通と異なる状態にある時、そのようなときのみ、名伏し難きもの、すなわち未知のものが姿を現すことができる。
と、この本の最初の部分にすでに答えが載っていた。
 
その後、この本を少し読み進めたが、結局抽象的な話にしかならない。
 
何故なら、鈴木大拙の「無心について」と同じように、言葉で表せないものを言葉で説明しなければならないとき、どうしても比喩でしか伝えられないのと同じで、彼が言う「」とは「真理」の事であり、それは我々の意識でとらえられないし、言葉と言うもので表せない。
 
確かに、他の本の中にも「」を理解することも知ることもできない。
それは人間の知覚の及ばないものであるから・・・・・というモノもある。
 
それを私は何とか知りたいと思っているのだが・・・・・
 
しかし、それを追求すればするほど、「真の神」を見つけることもできないということにやっと気が付いた。
 
 
実は易占で「いつ、窮すれば変ずが始まるのか?」と、何度問いただしても「じっと待て」としか出てこない。
だけど、努力家の私としては、「何もせずにじっと待つ」ということは、究極的に難しい・・・
 
そこで、自分としても神の意思を知り、それに対してなんとか「積極的」に協力したいとどうしても思ってしまう。
そのために「じっと待てとは、何をすればよいのか?」と、何度も聞くのだが、易経の言葉にはそこまで具体的な言葉がない。
 
そこで、YouTubeを見て、時間つぶしをしているのだが、それでもやはりどうしても神についての本を読み始める。
 
たぶん・・・・
 
いゃ、絶対にそれがダメなんだということが、このクリシュナムルティの言葉を聞いて理解できた。
 
追求すればするほど、真の神は出てこれないわけだ・・・・
 
とにかく「委ねろ」そして「じっと待て」と言う意味が、やっと納得できた。
 
(資)文化財復元センター  おおくま
カテゴリー
①-読書録
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