高橋信次

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この人の存在は、ネットを検索していて、あるサイトに本物の霊能者として挙げられていたので知ったのだが、多くの本を出していた。
 
 
Amazonのそれらの本のレビューを見ると、かなり評判が高い。
 
心の発見」には、彼の少年時代の話が書かれているのだが、かれもまた不思議な体験をしていた。
彼は信州佐久高原の貧しい農家の生まれで10人兄妹の次男だと言う。
両親は信仰心の篤い人だったらしいが、彼が10歳の秋、ふとしたことから原因不明の病気になった。
 
夜の8時になると、突然心臓が止まり意識不明に陥った。
その日は3時間ほどで正常に戻ったが、その日から毎晩8時ごろになると、同じように心臓が止まると言う経験が続いたらしい・・・
その間、彼は「幽体離脱」を経験するようになり、自分の体から抜け出し、自分を取り巻く家族の姿を見たと言う。
 
どうもそれが半年ほど続いたらしいが、その後自分でも近くの神社に雨の日も風の日も朝晩参って祈願を、3年間ほど続けたとのこと。
 
ある時彼は母親と成田さんに詣でた時、黒衣装をきて深く顔を隠したまんじゅう傘の、見知らぬ旅の僧と出会った。
そのたびの僧は「病気のことは心配するな。近々治る。お前の眼は二重孔である。一生懸命勉強すれば、必ず霊力を持つようになろう。」と言われたらしい・・・
 
事実彼はその後霊力を持つようになるのだが、その前に指導霊からずいぶんと厳しい試練を与えられたようである。
 
なんか私も現在、とんでもない試練を与えられていて、その時の彼の追い込まれた気持ちがよくわかる。
 
彼は、工場をやりながら、宗教活動を続けていたらしく、1976年に49歳で亡くなるのだが、彼はどうもそれを知っていたように思われる。
 
 
その彼は、よく「自然の恵み」の話をしているのだが、電気会社などは金を払わないと止められるが、太陽はだれに対しても分け隔てなく、無償でエネルギーを与えている。
また自然は「循環」であり、すべての存在は他のもののために役立っていると「感謝」の必要性をいつも説いていた。
 
まさに彼の言っていることは正論なのだが、しかし既成の宗教には厳しい発言をしていたので、多分宗教関係者からは嫌われていただろう。
 
彼の著作も、また講演の時に話すことも、本人が考えたものではなく、「指導霊」がいろいろと指導してくれたと言う。
 
私も結構そういうことがあり、たとえば何か原稿を書かなければならないときでも、ぎりぎりにならないとアイデアが浮かばない。
なのに、書き始めたら、やけにすらすら書けたりする。
 
笠置の弥勒磨崖仏」の復元画像も、記者会見の1週間ほど前に、いきなり「」のイメージが湧いた。
湧いたと言うより「降りてきた」という感じだった。
 
だから、彼も宗教については全く素人なのに、やたらと詳しく、「人間釈迦」のシリーズも、知識もなければ、調査もなしに、指導霊が目の前でその状況が展開するのを見せてくれ、それをそのまま文章にしたらしい。
 
でも、釈迦の弟子たちとの話なのだが、まさにその場で見ているように詳しく描かれている。
 
また、彼は1つだけ「小説」を書いているのだが、原題は「餓鬼道」で、のちに「愛は憎しみを超えて」に改題されているのだが、戦後の東京で、高利貸しをしていた若者の話なのだが、ある日突然倒れて、生死の境を彷徨う。
 
実はその時「臨死体験」をさせられていて、それは守護霊が厳しく、彼の生き方を反省させていたのだが、彼の看病には内縁の妻と、会社の従業員の片腕の男が、彼を心配して交代で看病してくれていたのに、彼は「お金」の事しか頭になく、今までその二人をはじめ、多くの人々を苦しめてきた。
 
それを反省させるために、彼の生れたいきさつから彼に見せるのだが、母親は台湾の女性で、父親と一緒になり、日本にわたってからずいぶん苦労をしてきた。
 
父親も早くなくなり、そのきれいな台湾人の母親と彼とは日本でずいぶん差別されて、育ったが、それでも若い頃の彼は正直でまっすくな子だったのに、その母親も苦労の果てに亡くなり、それが元で彼の性格が変わっていくのだが、その母親の苦労を見ていると、読んでいて涙が止まらなくなった。
 
60過ぎの男が泣くのだから・・・
でもそのおかげで、葉室頼昭さんのように、胃潰瘍が消えてしまった。
 
そんな感動的な小説なのだが、そこで高橋信次の訴えていることは、普段彼が言いづづけている、感謝や思いやりの心の大切さであった。
 
そんな素晴らしい霊能者であった。
 
(資)文化財復元センター  おおくま
カテゴリー
①-読書録
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