いきなり、こんなタイトルだが・・・・
私は自分では人並み以上の苦労をしていると自負する。
ただ「自負」するだけで、その比較の対象がはっきりしない。
しかしながら、現代人は「苦労」を極端に嫌う。
苦労は悪だと思っている様子で、出来れば苦労などせずに「楽」して一生を終わりたいと思うらしい・・・
だけど、人の一生ってなんだろう?
自分が生を受けて、棺桶に足を突っ込むまでを、ほとんどの人は「一生」と思っているらしい・・
だとすれば、苦労をせずに楽に死ねればそれに越したことはない。
だけどそれってあまりにも「短絡」過ぎると、私は思う。
「顕在意識」でしか、人は思考できない・・・
顕在意識=現実世界と考えれば、それも間違っていない。
しかし私は、巷の常識を超えたことを多く経験している。
「常識」=「顕在意識」と言って過言ではないが、私は若い頃から「自問自答」をしてきた。
するといつの間にかその答えが返っていることに気が付く。
それは自分で「思考」して得た答えではなく、自分の意識外から返された答えと言える。
何故なら、そんな答え、考えたことも、知識を得たことも無い。
にもかかわらず、その答えが「自分の中」にある。
じゃそれは誰が答えたものか?
それは「潜在意識」が返してきた答えだと私は思う。
その返された答えは納得のいくものだが、巷の常識と大きくかけ離れていたりする。
でもその答えの方が絶対に正しいと、私は確信する。
前置きが長くなったが、我々が思う「現実世界」が本当の現実だろうか?
まずそこから疑わなければならず、我々が目にし、触って確認できる「物質」世界は、実は幻だと言われている。
本当の現実は「目に見えない」「時間が無い」「距離が無い」世界で、本当の自分自身とは「魂」であり。それは輪廻転生すると言われる。
つまり我々が思う「一生」なんて、その一部でしかない。
その一部で「楽」をするか「苦労」するかは、顕在意識の世界で考えられる違いでしかないが、しかしそれが何故「輪廻転生」するのか?
それを考えた時、人の魂はレベルがあり、それらは輪廻転生のうちに徐々に上がる人。全く上がらない人などの差ができる。
その差は我々が思う「現実世界」での努力の違いでもある。
苦労とはそれを磨くための試練と言える。
それを喜んで受ける人、嫌がる人・・・・
その差は何代にもわたり蓄積される。
何故こんな話をするかというと、本日検索項目に「苦労は人を育てる」という言葉があった。
まさしく私が唱えてきた言葉だが、googleの検索結果の第一に私のブログがあった。
一方「苦労は人を育てない」というブログがその次に上がっていた。
書いているのはいかにもエリートと言わんばかりの人。
内容など読む気もないが、彼は「顕在意識」でしか物事を理解できない人だと思う。
自分の一生は一代限りだと思ている人だろう・・・・
(資)文化財復元センター 大隈 剛由
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