続・「無心ということ」鈴木大拙・著

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この本、年末に一度読んだものである。
 
最近「易経」を使い、自分の運勢の流れを見る。
するとたびたび「君子」と言う言葉と「無心」と言う言葉に行き当たる。
 
何となく、ニュアンスは解らないでもないが、しかし具体的に説明できない。
 
元々理屈で考える性格なので、そこのところが気になる。
 
 
 
そこで、この本の存在を知り、一度読んでみたが、何分戦前のものであり、無心と言う形のないものを言葉で説明するものだから、「たとえ話」となる。
 
なんとか言わんとするところは判りはするが、読んでいて何度も眠くなる。
 
今日もまた読み直しを始めたが、すぐに眠気が襲い、何度読み進めてもすぐに眠くなる。
 
 
ただ、本日はその「無心」ということを、著者はどういう例えで話をしているか?
それがこの本の最初の部分でもいくつも出てくる。
 
1.木々の木の葉の影が大地にできるが、その影が風で揺れても、地面のチリ一つ動かないとか、月が水面に映ってキラリと光っても、水面は動かない・・・・
 
2.今、神が現れ、海辺にある櫂も帆もない小舟に乗り、大海に出よと命じたら、何の躊躇もなく、出て行く。
 
3.神を信じるとは、信じられる証拠があるから、信じるのではなく、信じるからそこに神が存在する。 また、神は奇跡をお越し、助けることができるかと問われれば、答えは「お前は助けられたことがないからそんなことを言う」と応える。
 
 

 
つまり、私もずいぶん以前から不思議な体験を数多く体験しているから、「目に見えない不思議な力」と言う存在を確信してはいるが、しかしそれが神なのか仏なのか?あるいは違うものなのか?は、会って話をしていないので解らないし、また「半信半疑」でもあった。
 
ところが去年の夏ごろから、試練を受け、いろんな本を読むうちに、「信じること」の大切さに気が付いた。
 
そう、信じるからそれは力を貸してくれるが、信じない者には援助はしてくれない。
 
 
 
そこまでは理解できていたが、しかし「無心になる」ということがなぜ必要なのか?
それも本で学んだ範囲では、自力で何とかしようと力んでいては、神は力を貸せないと言う。
つまりそれを「天にゆだねる」ということらしいが、そこまでは「理屈」で考えても「理解」できたのだが・・・・
 
 
今、私はとても大きな試練を与えられ、それらを学んできたが、性格的に「理屈っぽい」部分があり、自分で「納得」できないと動かない。
 
実は易経では「窮すればすなわち変ず」と言う言葉があり、物事は極限に達すると必ず「変化」が起きる。
今、私はその真っ最中にあるのだが、なかなか「変化」が起きない・・・・
その理由を知りたいと思い、君子や無心というモノを理解しようとしている。
 
 
で、この本を2度読み直しをしていて気付いたのだが、神は櫂も帆もない小舟に私が乗るのを、じっと待っている。
そう、それに身をゆだねられなければ、最後の「変化」は始まらないと言っているのだろう・・・・
 
(資)文化財復元センター  おおくま
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①-読書録
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コメント

  1. oukuma より:

    こんにちわ・・・
    随分と難しそうな話ですね・・・・

    私など、アホのいく職業高校した出ておらないので、理解不能ですね・・・・

    ただ、私もずいぶん理屈っぽい性格なんですが、同時にものを創る感性も持っていて、最近は「閃き」をずいぶんと受けます。

    私も「無心」と言う言葉の意味を考えれば考えるほど、判らなくなりますね。

    そこで、最終的に「神とはなにか?」ということを追及することを、止めました。

    結局、神はそれを一番嫌うらしい・・・
    理屈が通らないのが「神」の世界の様です。

    やはり、よく言われるように、「委ねて」「じっと待つ」以外には方法はなさそうです。

    「無心」ということも、結局は追及しても答えがないのでは??
    神と同じで、無心も意識することを止めた時に、はじめて理解できるものだと思います。

    (資)文化財復元センター  おおくま

  2. 匿名 より:

    仙崖和尚は、臨終に際し「死にたくない」と言われたそうですが、凡人は、どうしたら平常心でおられるのか。究極は、死に際して、うろたえなくて済むには、どんな心の状態を保てばよいのか。
    「無心ということ」の本を読んでますが、無心とはそんなことかと頭で理解しても、実生活の中では、なかなか無心なる心境にはなれません。無分別、心身脱落、は難しい。可視の世界では無常は分かるが、また、「空」なる「縁起」の考え方はある程度分かるが、「無自性」や「実体がない」、「無」に至っては観念の世界で理解しがたい。[アルガママ」でいられればベストだろうが、[心」は揺れ動く。執着を離れ無心になるには、やはり[八正道」の修行か?

  3. 江中 正望 より:

    仙崖和尚は、臨終に際し「死にたくない」と言われたそうですが、凡人は、どうしたら平常心でおられるのか。究極は、死に際して、うろたえなくて済むには、どんな心の状態を保てばよいのか。
    「無心ということ」の本を読んでますが、無心とはそんなことかと頭で理解しても、実生活の中では、なかなか無心なる心境にはなれません。無分別、心身脱落、は難しい。可視の世界では無常は分かるが、また、「空」なる「縁起」の考え方はある程度分かるが、「無自性」や「実体がない」、「無」に至っては観念の世界で理解しがたい。[アルガママ」でいられればベストだろうが、[心」は揺れ動く。執着を離れ無心になるには、やはり[八正道」の修行か?

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