最近ずっと易占をしている。
と、言ってもそれは「占い」というより、「神託」というべきものだと思う。
私がこんな話をしても、誰も信じないし、相手にもしない・・・
しかし、実際に易占をしていて、当たるとか当たらないとかいう話ではなく、私のことを知り尽くしていて、そしてずっと私のことを見ている「存在」がいて、それが私に易占の答えを返しているとしか思えない。
例えば、以前にも少し触れたが、一番安物の筮竹(ぜいちく)を買って、自分でニスを塗った。
すると極端に塗り斑の玉ができたりして、手触りが悪かった。
それを使って。易占しても、精神統一していない時点で筮竹を振っても、またもっとひどいのは、実は筮竹(ぜいちく)の数は本来50本と決まっているのだが、私は届いた筮竹(ぜいちく)の数を数えずにそのまま使っていた
それでちゃんと、まともな答えが返っていた
で、ある時筮竹(ぜいちく)の数を数えると、なんと予備に1本多く入っていて、51本だった・・・
それに気がついて、1本減らした後の答えも、今までの答えと同じポリシーで返されている。
また、塗り斑のできた筮竹(ぜいちく)を紙やすりで磨いて、きれいにした後も何も答えは変わらない・・・
明らかに、どういう占い方をしようと、易で質問をした時点で、すでに「答」は決まっているとしか思いようがない。
そんな状態で占いを続けていると、神からいろいろと教えられたり、叱られたりする。
私は半年ほど前から「霊的」な話をブログに書いたりして、表に出すようにしてきた。
それは守護霊がそうするように閃きをくれたものだと信じてきたが、それを易で確認しても間違いではなかったことがわかる。
それはそれこそ「類は類を呼ぶ」という「引き寄せの法則」を働かせるためだと信じてきたが、どうもそれも間違いではなく、もうじきそういう繋がりができると、易の答えが返っている。
当然霊的な話を表に出せば、それを信じない人々が多い世の中で仕事をしているので、仕事に差し支える。
それでも続けることに意味があるのだと思ってきたが、それは間違いではないと易に出るのだが・・・
しかし、もう一つ「必要以上に敵を作るな、敵を味方にしろ」とも易に出る。
そんな事で、どの程度が「中庸」なのか、現在思案中・・・
(資)文化財復元センター おおくま
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