先日よりネットで、「天皇の陰謀」デービット・バーガミニ・著を、独自に訳しているオーストラリア在住の日本人のサイトがあり、そこにその「天皇の陰謀」の全和訳が載せられている。
この本には日本において、「天皇制」というものがいかに作用しているかを、日本で生まれたアメリカ人が、日本の外地の捕虜収容所で育ち、戦後・1960年代に再度家族をつれ京都に住みながら、資料を探して、アメリカに帰ってから書き上げたものらしい・・・
この本を独自に訳されているそのサイトの主は、日本人じゃないからこそ「天皇制」のタブーに踏み込めたと評されている。
で、元々この本は1970年代に日本語訳が出版されているが、何冊にもおよび、現在Amazonで調べても古本がべらぼうに高い。
で今回の、その訳者の訳中の感想をまた「ダブル・フィクションとしての天皇」
として記されているのだが、その中に面白い文を見つけた。
何やら「坂口安吾」(1906年-1955年)という文学者が居るらしく、彼の言葉を載せている。
天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、 真に実在したためしはなかった。/藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等 が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼等は自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまっさきにその号令に服従してみ せることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。(中略)/自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇 にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民におしつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬか ずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。/それは、遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないの だ。見給え。この戦争がそうではないか。( 「続堕落論」 )
まさにまたそれが起きようとしていると、私は思う。
(資)文化財復元センター おおくま
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