この本は、先日紹介した「霊能一代 砂澤たまゑ」という、伏見稲荷の直轄の講社の「三丹支部」の宮司である女性の自叙伝の紹介をしているサイトhttp://97331420.at.webry.info/201008/article_1.html を1年ほど前に「お気に入り」に入れておいたのだが、しかしかと言って、わざわざその本を読もうとまでは考えなかったのだが、先日仕事がらみの「不思議な出来事」を動画にしょうとフト思い立ったって、数日で5本の動画を作った。
後から思えば、それも不思議な事なのだが、よく「思いつく」のは実は、自分がそう考えたのではなく、守護霊が「そこ」に導いていることが多い。
で、それをYouTubeにアップして、facebookやミクシイに載せた。
すると特にミクシイの不思議系や、神社関係のコミュの人は見てくれたのだが、そのうちに私のプロフィールにアクセスする人が数人いたが、その中で特に気になる人にメッセージを入れたところ、案の定・・・・
霊能者だった。
私はその不思議な出来事の動画の中にて出てくるが、過去に何度もそういう霊能者とチャンネルが繋がり、その人から守護霊の「伝言」を聞いている。
ここ数年、そういう出来事が起きないので、少し気になっていたのだが、今回久しぶりにその霊能者から、「信心が足らないのではないか?」というニュアンスの言葉を言われ、守護霊にいろいろと尋ねれば、教えてくれるといわれた。
で、私も守護霊に尋ねたところ、「霊能一代」のあのページに目が行った。
つまり、そこに何らかの守護霊の伝言が絡んでいると思い、早速Amazonに注文した。
と、前置きが長くなったが、その時、もう一度気になってそのサイトの他のページを見てみると「口語・神判記實」という、本が紹介されていてhttp://97331420.at.webry.info/200808/article_1.html その中に
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①大祓詞を奏上して狼の難をまぬがれた話
紀伊の国の熊野に樵を業とする男があった。
・・・或る日ふだん行ったことのない谷間に迷い込んで、日影が西に傾いたけれど家路に出ることが出来ず苦しんで居ると、・・・その数もわからぬほどの狼が群れだって此方にやって来るのであった。
岩松は懼れ迷うて、今は避けるに道もないので、傍の木に攀じ登って、息を潜めながら、狼のなすさまを伺うていると、男を見つけた狼は、木の下に集まって来て、順々に背に乗って高く重なりながら、だんだん木の半分以上までになったので、男は懼れて・・・思い乱れて、不図心づいたのは、若かった頃、都に出てある家に仕えていた時、其の主人の常にいうていられたには
「祓の詞ほど尊いものはない。何事にせよ此詞を称えて神にお祈り申し上げれば、叶はぬことはないばかりでなく、大蛇の近づくのを遁れたことや、火の災いを避けたというような例は珍しくない。お前も常にお称えせよ」
といって慇懃に教えて下さって、平生暗称して来ていたが、近ごろは業に紛れてお称えすることもなかったが、こんな時にこそと思いを定めて、声高らかに祓の詞を称えたのであった。・・・二度ばかり称えおわった頃、(狼はどうして居るだろう)と思って見おろすと、背中の上に重なりあって居た狼どもは皆地に下り、打ち臥して称える詞を聞き入って居る様子である。此れを見て岩松は不思議に思い、いよいよ声を振り立てて称えて居ると、その木の片枝の朽ちたものが、ガサっと音を立てて落下した。其の音の烈しさに驚いて彼の狼どもは四方に逃げ散ってしまった。
男は・・・木を下りて朽枝の前に額づいて神恩を謝し奉り、其の所に居て終夜祓の詞を称え、夜が明けてから暫く家に帰ることが出来て、あった事の次第を告げて一家中悦びあったのであった。
其の後は・・・先ず祓の詞を称えてから万事を行うようになった。
若い時から称えて来た詞であるけれど、今は誠実なる心から称えるので、種々の奇特があらわれて、凡そ三年先の事は自然と心に浮かんで知られるような身になった。・・・
②産土神が大祓詞をおすすめになった話
近江の国古賀という所に、善九郎という人があって、此の人中年の頃までは、それほど神を敬う人ではなかったが、・・・ある日、夕暮れに容貌のまことに物凄い老婆で十二三歳ばかりになる男の子をつれたのが家にやって来て、案内もせずに奥の方に入ろうとするので、家の者は皆恐れ戦き、善九郎も暫く黙っていたが、心を励まし進み寄って咎めようとすると、彼の婆と子供は煙が風に散るように忽ちに消え失せてしまった。
・・・其の夜は上も下も同じ間に寄り集うて、胸とどろかしながら打臥したところ、善九郎の夢に尊い姿をしたもうた神がお顕われになり、善九郎に宣うには
「我は汝の産土の神である。今日邪魅が汝の家に来たによって、汝に告げるために、かくは顕われて汝に示すのである。汝は心のまがったものではないけれども、神を尊むの心が薄いから、神達の御守りの薄いのを窺って常に諸々の邪魅が入って来たが、眼に見えるままではなかったのを、さきに来た邪魅は汝が心を乱し、此の家を亡ぼすために正しく眼に見えて入って来たが、我来たって門に入ろうとするのを見て、一度は彼のもの恐れて逃げ失せたが、再びやって来る事があるであろう。其の時若し罪穢れのある時は、我来ることはないであろう。故に神助を以って此の害を免れようと思えば、速やかに神の御棚を清め、都に出て祓の詞というものを求めて来て、毎日五度がほど怠りなく奉唱するがよい。彼の物ばかりでなく、諸々の邪しい者は皆逃れ去って二度と来る事なく、我も又常に御棚にあって守るであろう。」
と宣うと見て 覚めたのである。
それからというものは・・・祓の詞を手に入れ、・・・朝夕神明を尊み敬っていたが、何の災害もないばかりでなく、家業さえ次第に繁盛して、めでたく世を送ったということである。
「神判記実」山雅房より
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と、その内容を記された記事があり、この本も少し気になったので、一緒にAmazonに注文した。
霊能一代は、砂澤さんが語ったものを、どなたかが文章にしたもので、10年前の出版だから、日本語としても非常に判りやすかった。
ところが、こちらの「口語・神判記實」はどうも元は明治時代に書かれたものを、昭和47年に「口語体」として編集されたものと言うが、しかしその口語体と言っても、非常に判りずらい文章で、しかも書かれている話は、江戸時代の短編の話をいくつも集めているらしく、せっかく買ったのだから、最後まで読もうと努力したものの、結局1/3ほどで投げ出してしまった。
集められている話は、どれも似たように話が多く、もう少し一つ一つの話に詳しく充実したものがあれば、もっと読めたと思えた本であった。
(資)文化財復元センター おおくま
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