1-復元系

ことば狩り(昔ばなし)

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随分昔の話である・・・・ 巷に「バカチョンカメラ」と言う言葉が、一世を風靡していた。



当時パソコン通信の創世期で、「写真フォーラム」は仲間内でワイワイやっていた頃、そろそろ巷で言う「常識の違うヒト」が発言を始めていた。

今では「フイルム付きカメラ」とでも呼ばれているのかなぁ・・・
あのカメラも出来た頃は「使い捨てカメラ」と呼ばれていた。


ところが、今の「もったいない」ブームじゃないが、使い捨ては資源の無駄ということで、再利用が始まって、呼び名まで変わった。
そんな「歴史」がある。


それを、さっきの「ナカミ」の話で出てきた「押せば写る」時代が来るわけ・・・・
するっていと、素人でも旅行にカメラを持参する。


つまり写真の知識が無くても、写真が「撮れる」様になった。
そんなカメラの総称が「バカチョンカメラ」と呼ばれた時代があった。


どんな意味だろう?



僕は当時、馬鹿でも誰でも「チョン!!」とシャッターを押せば、写真が撮れるという意味だと解釈していた。
いゃ、僕に限らず、世の中の大半のヒトはそう考えていたと思う。



だから、ネット上の写真の話題には、よくこの言葉が顔を出していた。



すると・・・・

そう、世の中には違う常識を持ったヒトが一杯いる。



ある時ネット上に「バカチョンとは何事か!!」と言い出すヒトが出てきた。


みんなキョトンとしていると「バカチョンとは差別用語だ」と言う。



つまり、歴史をさかのぼると「チョン」とは「朝鮮人」を指し、しかも馬鹿にした呼び名だという。


みんなあっけに取られたけど・・・・

バカチョンとはまさに「馬鹿な朝鮮人」という意味だと言い出す。

この話は時が経つと何度もぶり返しを見せた。



なるほど「歴史上」では、確かにそう呼ばれていた時代があるのは事実かもしれない。


だけど・・・・
はたして「バカチョンカメラ」とは、そう意味で使われていたのだろうか?僕は今でも疑問を覚える。


いゃ、違うと思っている。



言葉とは、歴史と共に、その意味するものが変わってくるはず・・・



当時はやっていたカメラの「バカチョン」という言葉に、はたして「馬鹿な朝鮮人」というニュアンスを含めて使っていたヒトが何人いただろうか?



まったく違う意味で使われていたと、僕は確信するんだけど、そうやってクレームを入れた人々は違った認識を持っているわけである。

もちろん、人それぞれ・・・・
そう言う考え方をしても間違ってはいない。



ただ・・・

当時、少しおかしいと思った事がある。



その人が「踏まれたものの痛みが判るか!!」と、言い出したわけ・・・

にゃるほど・・・・



と、思うよね・・・


すると本人は「踏まれる立場のヒト」だということになる。
その立場のヒトの発言なら、僕も素直に受け止める。



だけど、へんこつのくまさんだから「あれつ?」と思ったわけ。



どうも本人は「違う・・・」という。

おかしくないかぁ?
「踏まれた経験が無いものが、踏まれた痛みが解かるか?」


ちょっと待て!!となるわけよ・・・

よく「ヒトの痛みが判るようになりました」というヒトが居る。
だけど、ホントに解かるのかな?



僕は今あえて「判る」と「解かる」とを使い分けている。



つまり見ていてわかるのは「判る」だよね??
一方「理解」することは「解かる」だよね・・・
この違いは大きいと思う。



多分、そういったヒトは、相手を「見て」いて「判る」という判断なんよね・・・


もっと簡単に言うと、「そう思った」とか「想像できる」と言う「域」を出れない。



ヒトって結構この手のヒトが多い・・・


それで他人のことを解かった気になっているんだけど、その「判断基準」って一体何なんだろうと思う。


その基準て、実は「自分と言う計り」で他人を計っているに過ぎないわけよね・・・


ヒトにはそれぞれ違ったはかりを持っている。
それを「自分の計り」で計っておきながら、はたしてホントにヒトのことが解かるだろうか?


はなはだ疑問に感じる。



痛みと快感は実は紙一重だったりする。

だからSMなんてなモノが存在する。


それを自分の感覚で、他人の感覚を判断して、そして「決め付けて」いいものだろうか?



で、話を元に戻すけど、そう言う人って、実は「差別用語」がこの世の中から無くなれば、差別はなくなると思っているように思えた。



「バカチョンという言葉を使うな!!」なのである、結局その人たちが言いたいのは・・・



でもねぇ・・・差別って言葉の問題じゃないやん?


むしろみんなが忘れていたと言うか、ぜんぜんそんな意味で使わなかった言葉を、「語源」を持ち出すことにより「差別意識」を呼び起こした。



むしろ、ホントに差別意識を持っているのはどちらだろう?


僕の「文化財の復元」は、実はそこに本来の意味が有ると思う。


この手の差別は歴史上、実在していたわけで、それに対しての認識と言うか、ちゃんとした知識とか教育とかは、きちんとなされるべきだと思う。



なのに、行政もこの手の差別から目をそむけると言うか、いゃそう言う事実すら存在しなかったかのように、隠そうとしたり、改ざんしたりしょうとしている。



特に部落問題は根が深い・・・
ある地域の「歴史」から完全にその部分が抹殺されていて、あたかもそんな歴史など無かったと言わんばかりである。



おかしいよ・・・「事実」に反するわけ・・・



「文化財」とは「文化」を「形」にしたものなんよ・・・
形そのものに意味があれば、それはもう一度同じ材質で、同じ顔料で、同じように作ればそれで済む。



それが、今「研究目的」で行われている「復元」の実態なんだけど、僕は違うと思っているわけ・・・



そう、文化財とは「ナカミ」なんよ、大事なのは・・・



「何故創られたのか?」「何故記されたのか?」なんだと思う、ホントに大事なのは・・


決して形として同じモノを、もう一度作れば済むという問題じゃないはず。



文化とはヒトの営みであり、記録である。


それを「正しく伝える」事の大切さをちゃんと判っていないと、行政が逃げ腰になるから同和問題の逆差別が起きたりする。



過去として、歴史上存在したことはちゃんと後世に伝えるべきじゃないだろうか?


そのための「復元」なんよ、大事なのは・・・・



変に形を変えてごまかそうとするから、逆に歪な差別意識が残ったりしていないかなぁ・・・・



  くまさん

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