「愛と癒しのコミュにオン」鈴木秀子・著 その2

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前置きだけで、その1は終わってしまったが、この本は「傾聴」について書かれた物らしい・・・
 
 
聞きなれない言葉だが、「聞く耳を持つ」と言う言葉はご存知の方も多いと思う。
 
この場合の耳は「他人の話を聞き、受け入れる」と言う意味で使われる。
 
しかしどうも「傾聴」とは、逆の立場の様である。
 
私たちは、子供や知人や、同僚や部下などから、よく「相談」を受ける。
いゃ、相手に相談する気がなくても、会話として聞くことがある。
 
そんな時、どうしても自分の考えを相手に伝えたり、その考えを批判したりしがちなのだが、それはけっして悪気があってやるわけではないのだが、結果として相手の心を塞ぐ原因だと言う。
 
つまり、相手はそれを望んでいないと言う。
 
よく、他人に相談するときは、本人にはすでに答えが出ていると言われる。
だから相手の意見を聞くと言うより、自分の話を聴いて、相槌を打ってほしいと願っていると言われている。
 
そのあたりのことを、相手を「癒し」、そして自分自身も癒すための方法を詳しく説明されているのだが、Amazonのレビューはその「傾聴」についての感想が多い。
 
しかし、私はそれよりも最後の章に書かれていたことの方が、とても私の意識を高めるものであった。
 
その最後の章とは「大宇宙に聞く」となっている。

 
先ほどのその1にも書いたのだが、「宗教」という枠に囚われている人は、神とはキリストだと言う。
 
なのに彼女はカトリックの厳しい沈黙の行を終えた人なのに、「大宇宙に聞く」と言う。
そこがシスター鈴木秀子から学ぶべき点だと私は思う。
 
神道の春日大社の宮司に導かれた葉室頼昭さんも「神とは宇宙の心」だとはっきり言う。
イスラム神秘主義のスーフィーや、キリスト教神秘主義者などは、最終的に行きつく先は同じらしい・・・
 
カトリックの鈴木秀子さんも、最終的には「宇宙」が神であり、その神は自分の中と繋がっていると言う、ユングの「集合的無意識」の話が出してくる。
 
 
どんな宗教を信じていようが、最終的に直接神と繋がれる人は、同じ神に繋がるものと思われる。
 
それに対して、宗教にしがみつき、人と神との間に割り込み、「仲介役」として自分の存在を保とうとする人たちが居る。
しかしそんな人に限って、自分が神と繋がった経験を持たなかったりする。
 
だから、直接神と繋がれる人たちを「ニューソート」とひとくくりにして、それを批判したりする。
現代の「魔女狩り」だと思う。
そんな態度だから、現代人は宗教を求めなくなる。
 
そして、「目に見えない不思議な力」を「サムシンググレート」などと呼び、神とは区別する。
 
その原因は自分たちにあることを、自覚していただきたいと私は思う。
 
 
シスター鈴木秀子は「見える世界」をドゥーイングと呼び、「人類が一つに結ばれている深い世界」をビーイングと言うとの事。
つまり、愛において「条件」を付けて、愛することと、無条件に愛することの違いだと言う。
 
子供が交通事故にあった時、「生きていてくれればいい」と思うのがビーイングであり、普段はよい子で良い学校に進学してほしいと願うのがドゥーイングだと言う。
 
本来、キリストの愛はビーイングの「無条件の愛」だと彼女は言う。
 
だから彼女の著書には、相手に対して批判的な話が出てこない。
なのに、その人を批判している輩が、自分でカトレックは彼女に批判的だと書く。
 
どちらの意見が正しいかは「ニュートラル」で考えれば、すぐ判る。
私はエニアグラム的にいえば、1番の完全主義者に入るから、おかしな話にはどうしても批判的になってしまう。
 
彼女は3つの「気づき」について
1.あなたは愛されています。
2.あなたは許されています。
3.あなたには価値があります。
 
と、この章で書かれている。
これは私が知りたかった、我々は自分を変えることで世界が変わるのか?
それともそのまま変わる必要がないのか?
という大きな疑問の答えを、彼女はそれぞれについて、詳しく述べています。
 
つまり、人は、いゃ特に私は完全主義者だから、より努力して、より正しいことを目指し、向上心を持つ。
しかし、神はそんなものを求めていない・・・
善悪、上下、いろいろあってそれらは神からすれば同じ価値を持つと言う。
 
この本には私の求める「意識の高さ」が間違いなくある。
 
(資)文化財復元センター  おおくま
 
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①-読書録
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