「スーフィーの賢者 ルーミー ”その友”に出会う旅」 エハン・デラヴィ著  その2

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エハン・デラヴィ氏の著書には、スピリチュアルにはまっている人々への厳しい言葉が多い・・・
 
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何らかの神秘体験をして、スピリチュアリティにすでに通じたかのように思い込んでいる人は、スピリチュアルな物質主義の罠に掛かっていると言えるだろう。
例えば「○○への祈りが叶った」、「願いどおりに○○が起こった」などと言う人は、自分の霊的能力を誰かに認めてもらいたい。
しかし「囚われの無い谷」では「それがどうした?」と、自分の中に言い聞かせるだけである。
 
禅の世界に魅了されて、日本で生活するようになったアブトゥールは、毎朝、欠かさずに座禅を組むことが習慣となり、それから15年ほど続いていた。
当初は、当然何らかの期待を抱いて座禅を組んでいた。
しばらくすると、座っていることが徐々に退屈になったが、次第に、どんな期待も手放して、とにかく座ることに徹した。
スーフィー的にいえば「彼は尻をすり減らした」という事だ。
 
 
過去世リーディングができる、水の味を変えてみせる、精霊と会話できるとか、多種多様な現象がスピリチュアルな物質主義にはある。
このような俗世界の傾向と一線を画すもの、それこそがひたすら諸行無常について説く仏教である。
 
イエスキリストは、まさにスーフィーのマスターであった。「自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、私のために命を失うものは、それを得る(マタイ16・25)」と、イエスは語っている。
 
これは自分の人生ドラマに囚われるなという事だ。
それも、ただ意識するだけではダメであり、わざわざクエストに出なければならないのだ。
私たちは「囚われの無い谷」さえも超えて、さらに旅を貫く決心を固めることへと導かれるのである。
 
今、スピリチュアルにハマっている人は、今のスピリチュアルの世界を後にしたとき、もっと真剣にこの現実世界と向き合う準備が整うだろう。
もうその時は、外的世界によって自分の気持ちを晴らそうとは考えなくなるだろう。
 
ルーミーは、囚われからの解放は、人間が努力して得ようとするものではなく、贈り物として受け取るものであると詠っている。
 
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どうだろう、そこのスピリチュアル系に憧れる貴方??
 
この意味が理解できるであろうか・・・・
 
 
これがエハン・デラヴィ氏の精神性の高さだと私は思う。
 
 
 
少し話は変わるが、よく修験道に励む人は「神秘体験」を求めていると言う。
これは彼の言うところの「スピリチュアルな物質主義」と言えるのだろう
それを求めなくなったところからが、本当のスピリチュアルな道という事だろう。
 
 
何をもって神秘体験と言うのか疑問だが、私など、自分が求めていないにもかかわらず、不思議な出来事のほうかから嫌と言うほどこちらへやってくる。
 
あんなもの、別に求めるものでもないと思うのだが、実際に何らかの力がそこに加わっていることは実感できる。
 
 
 
 
彼はまたマザーテレサの例を出す。
 
彼はルーミーの師であるシャムスのことを、「貧者」と言う。
スーフィーに限らずキリスト教においても、最も悟った人は「貧者」と言われる人々だと言う。
 
このマザーテレサもまさしく「貧者」と言える。
スピリチュアルな貧しさとは、「謙虚さ」なのだと言う。
 
マザーテレサは死の直前まで、自分が良きクリスチャンではないかもしれないと苦しみ、しばしば司祭に自分のために祈ってもらっていたと言う。
 貧しい人々に食べ物を与え、心と肉体の傷を癒すために働く彼女は「貧しさとナッシングネスの谷」の試練をどこかで理解していたのだろうと言う。
 
 
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現代人にとって、この苦しみの境地は歓迎できるものではない。
日常生活とは、海の波のパターンのようであり、我々は思考パターンや行動パターンに執着し、深海に存在する愛に飛び込むことを恐れている。
 
いくらスピリチュアルな体験をしても、それらが真実と言うわけではないということをスーフィーは警告している。
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マザーテレサの死後、彼女の手紙が遺言通り出版された。
その中には極貧の人々を救うことに命をかけた彼女の「孤独感と空しさ」が書き記されていたと言う。
 
 
彼女はまだ若き頃、ミラクルなまでのキリストのビジョンを見て、その存在をリアルに感じたことがあると言う。
 
たぶんこれはハクコック氏の対談に出てくる『異次元』におけるキリスト像なのだろう・・・
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私も覚醒夢をよく見るが、その感覚は「スーパーリアリズム」そのものである。
 
ところが
彼女のその後の人生において、キリストと出会うことがなかったと言う。
彼女はキリストが去ったものと意気消沈して、50年以上の人生を過ごしていたらしい。
 
にもかかわらず、彼女は常に愉快な人として人の目に映り、誰にも不満は洩らさなかったと言う。
彼女の謙虚さは深遠であり、主が姿を現さない十字架を嘆きつつも、日々精進を重ね、結果的に主に負けない仕事を成し遂げた。
彼女は長い間、神との分離を経験していたと言う。
 
私はこの話を読みながら、また涙してしまった・・・・
 
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無神論者の多くは、実際に神は存在しないと言う。
そんな彼らに「貧しさとナッシングネスの谷」を理解することは到底難しいだろう。
彼らは、1パーセントのリアリティに執着しながら、神は死んでいると確信している人々だからだ。
 
しかし、実際には神は死んでなんかいない。
 
それにしてもマザーテレサは、その後、何の兆候を得なくても信仰心を失わなかった。
これこそが、本当の信仰と言えるだろう。
 
神からの確信が持てるサインが全くないままに信仰を持ち続けるのは並大抵の事ではない。
日々、包帯を取り替えたり、食事を与えたり、亡くなった人に祈りを捧げること。
 
これをマザーテレサは、生涯を通して黙々とただ実行していた。
彼女こそ、将来、聖人として認められるに値する人物であろう。
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(資)文化財復元センター  おおくま
 
 

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