「愛と癒しのコミュにオン」鈴木秀子・著 その1

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この本は先日買った彼女の5冊の本の1冊である。
 
私はシスター鈴木秀子の意識の高さに感動し、それを学び、自分も意識を高めるために読んでいるのだが・・・
 
世の中には必ず正反対の考えを持つ人が居る。
 
人は良く「常識」と言う言葉を好んで使う。
その裏には「自分は常識を持っている」と自負されていればこそ、自分の考えていることは、「みんな」と同じであり、それが「世の中の常識である」と、思い込んでおられるに過ぎないわけだが、私はこの考えには批判的である。
 
 
それは私の「経験上」そう思うだけなのだが、しかしたとえば彼女が日本に紹介した「エニアグラム」と言うものがある。
彼女はそれをスーフィー主義者が秘伝としてきたものだと言う。
 
確かにエニアグラムと言う図形は、その教えの元になっているのだが、しかし「性格分析」としてのエニアグラムは、どうも20世紀になって、それとこじつけられたものの様である。
また、その発端となったのは、アメリカのカトリック教会らしい・・・
 
彼女の本によると9つの性格に分類でき、それは男女や民族や地域により、その比率に偏りはないと彼女の本には書かれている。
つまり、9つの性格があるとすれば、少なくても「9つの常識」が存在することになる。
 
しかし、ネットを検索すると、その根拠は、カトリックの教会が数十万人の信者に追跡調査したらしい・・・
その結果、偏りがなかったと言うが、しかしそれが事実なら、日本人と中国人や韓国人の国民性の違いは一体どこからくるものだろう?
 
そういう意味において、私はスーフィーと性格判断としてのエニアグラムは無関係だと思う。
 
ただ、大事なことはだからと言って、性格判断としてのエニアグラムをすべて否定しはしない。
 
何故なら、この本にも書かれているのだが、神はすべての人を受け入れていると言うし、それは性格の違いや個性も多様であることを意味する。
 
言い換えれば「理想の人間像」だけが、神が認める姿ではないということ。
個性は神が与えられたものだと思う。
 
にもかかわらず、シスター鈴木秀子の言動を、ニューソートだと決めつけ、彼女にだまされるなと、彼女の多くの著書にレビューとして書きこんでいる輩が居る。

 
彼女は「神は人を何処へ導くのか」の中で
そのきっかけは聖心女子大学に進学したのだが、その時の友人に曾野綾子さんが居て、曾野さんは戦時中から幼稚園からずっと聖心に通っていたらしく、戦時中に軍隊が突然学校に来て鬼畜米英、敵国を憎めと言って、日ごろの学校の教えと正反対のことを教えて帰ったが、その間シスターたちは黙ってそれを聞いていたのだが、軍隊が還った後にも、兵隊の悪口を言うことなく、「神さまの元で全人類は平等だけど、人間同士、皆不完全だから、戦いをすることもある。」「お互いに殺し合うような状況になっても、そのような人間を癒すためにキリストはこの世に生きて血を流したと信じています」と、シスターたちはみんなに語ったと言う。
と、私は書いたのだが、本当のクリスチャンなら、決して他人を批判しないはず・・・
 
それが「キリストの教え」だと思うのだが、しかしカトリック教会自身いゃ「教皇庁文化評議会/教皇庁諸宗教対話評議会」なる組織が「ニューエイジについてのキリスト教的考察
なる、バカげた本を出しているらしい・・・・
 
これが自分で自分の首を絞めていることも理解できない、哀れな現代の宗教の姿である。
 
これは先日も書いたエハン・デラヴィ氏とグラハム・ハンコック氏の対談本人類の発祥、神々の叡智、文明の創造、全ての期限は『異次元』にあった」と言う長いタイトルの本の中に
 
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宗教が始まるその中心では、いつも同じことが起きています。 
人々の心をつかむ教祖は、並外れた経験をして、それらの経験について説明した人間です。
しかし、第一世代、第二世代、第三世代と移り変わるうちに、官僚的になり、金もうけの集団になっていきます。
 
世代が下がるにつれて、彼らはこんなことを言い始めます。『あなた方には創設者の様な経験はできません。
異次元世界とは何か、あなたに教えられるのは私だけです』。
 
こうやって、彼らは私たちと霊の世界の間に立ちはだかって、人間を巣箱の中に押し付けます。
解放の道具として始まった宗教が、やがて制圧の道具となります。
 
可能性に向けて開放するのではなく、抑圧しょうとします。
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まさにそのままの行為をしているにもかかわらず、「自覚」がないのは、春日大社の宮司であられた葉室頼昭さんの著書「神道 見えないものの力」の中にも、親鸞聖人の「歎異抄」の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」について
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これはどういうことかというと、いい人というのは、善人ではなく、自分に悪かったと自覚していないひとです。 自分は悪いことをしていないと言う人でも、仏すくおうとされるんです。 
 
そして悪人というのは、私が悪うございましたと目覚める人です。 そういう人は救われるのは当たり前である。 こういう意味なんですね。 
 
だからいちばん救われないのは、おれは悪いことをしていないんだ、おれは善人だと言う人がいちばん救えない。
 
それは神道の祓いと同じです。 一生払い続けて罪・穢が払われると言うこととおなじです。
 
自分は悪かった、間違っていた。 だからもっと改めましょうと言う人は救われる。 おれは悪くないんだ、おれは正しいんだと言う人は、神さまでも仏さまでも救えない。
 
こういう人は地獄に落ちていきなさいという意味なんです。 ですから、じぶんは正しいと思っている人は、ざんねんだけど地獄に行ってください。(笑)
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と、はっきり自覚がないものが一番救われないと書かれている。
私はこの仕事をしていて、現代の宗教は初心に帰るべきだと思う。
大事なものは教会などの建物ではなく、その宗祖の「思い」ではないだろうか?
 
(資)文化財復元センター  おおくま
カテゴリー
①-読書録
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