私は自分で言うのもなんだが「自分に厳しい」方だと思っている。
ただ、若いころに別れた女房から「自分に甘く、他人に厳しい」と言われたことがある。
しかし、その時ムカッと来たことを覚えていて、その後さらに自分に厳しくしてきたつもりなのだが、しかし世の中に「自分に厳しく、他人にやさしい」のが理想だと言われるが、現実はよほど悟った人でない限り、難しいと思う。
さて、私は自分で自分自身をずいぶんと制しているつもりなので、自分は正しいし間違っていないと信じてきた。
だからこそ「正義感」が強いと思ってきたのだが、しかしそういう「自分に厳しい」ものは、現実はどうしても「他人にも厳しい」ものである。
正義感とはまさにそれである。
自分で間違っていないと信じるから、自分と反対の行動をするものを、どうしても「誤」だと思い、それを「正」そうとする。
しかし、宇宙には善もなければ悪もないように、正しいこともなければ、間違いもない。
そしてよく「愛」という言葉が出てくるが、それは他人に対して愛を注ぎなさいという話になるのだが、いろいろとスピリチュアル系の本を読んでいると、「まず自分を愛しなさい」という言葉が多く出てくる。
それは私の「自分に厳しい」ということと相対する言葉の様だが、しかしだからといって「自分に甘い」という意味では無さそうだ。
それは「自分に優しく」という言葉に置き換えられるようだが、自分に厳しいものはどうしても他人に厳しいもので、そこには相手を「許す」ということがなかなかできないもので、かくいう私も他人を許すことが苦手な性分である。
だからこそ、今回大きな試練を与えられた。
どの宗教の教えにも「許す」ことの大切さは説かれているのだが、なかなかその意味を理解できないわけである。
よく、相手の嫌いなところばかり目につくと、どうしても相手を悪く言うのだが、自分の意識を変えると、相手の違う面が見えてくる。
それを知ることで、自分の相手に対する意識が変わり、その結果相手の態度が変わるというのがこの手の本にはよく書かれている。
津留晃一さんの話には特にこれがよく出てくる。
我々も「意識改革」をすべてだと思う。
(資)文化財復元センター おおくま
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