作者は人間の肉体は「因」すなわち「神」の命令で動いている。
そして肉体ができて初めて「心」が創られるがそれを作っているのは4つの感覚器官だと言う。
「視覚」「臭覚」「聴覚」「味覚」であり、五感である「触覚」は意識そのもので、別だと言う。
私は「幻臭」をずいぶん以前に多く体験した。
多分それも「印象波」だろう・・・・
そして人間にだけ「現象」を「評価」する力があり、結果として「好き」「嫌い」が生じるのだが、しかし本来「宇宙意識」にはそんな区別はない。
これは津留晃一の話にも出てくるし、「自分の受け止め方」を変えれば、すべてが変わると言う話に繋がる。
「宇宙哲学」では4つの感覚を「矯正」することで、「宇宙意識の存在」に気付かせようとする。
つまり、人間の我欲は五感に惑わせることから始まると言うことだが、これは釈迦の教えも共通する。
この章で面白いのは「個性」について取り上げている。
それは「魂」蓄えられた情報であるが、宇宙的価値の無い「地位」「名前」「肩書き」などは生まれ変わりの時に持ち越さないが、「個性」「感性」などは持ち越す。
で、宇宙的価値とは「プラス思考」であり、個人的価値とは「マイナス思考」だと言う。
そして「宇宙意識」つまり「神」は常に我々に働きかけているが、我々はそれに「気づかない」だけだと言う。
確かにそうだと思う。
すべては我々人間が「見えないものは信じない」からだと思う。
「信仰心」とは、その事に気付かせる働きがあると思われる。
そして「思い込み」を捨てることで、印象波を感じやすくなる。
これは「霊能一代」の砂澤たまゑさんが「神さんはわたしにすべてのことを忘れろ、何も考えるなとおっしゃりました。 バカになれとも言われました。無にならなければ、神さまは動かれようがないのです。」というのはまさに、神さまからの印象波を受けるための条件なのだと思う。
この章で感心したのは、よく「波動を上げる」という話が出るが、確かにそれも大切だが「宇宙意識」は実はその振幅の幅が無限大に広いと言う。
だから「悪」をも許容できる。
これは釈迦が文盲の庶民相手に、たとえ話を使い説教したことと共通する。
つまり、受け入れる幅が広いのが「神」だと言える。
(資)文化財復元センター おおくま
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