この本の紹介サイトも、1年ほど前に「お気に入り」に入れていたサイトが取り上げていた本なのだが、当時はさほど興味が湧かなかった。
ただ今回、守護霊から「霊能一代 砂澤たまゑ」という本に再度導かれてから、この人の本が気になり、2冊Amazonから古本で購入した。
その中でレビューを読んで、読む価値がありそうに思った2冊を購入したのだが、まず最初に「<神道>のこころ」を読み始めた。
以前に紹介されていたサイトで、著者が春日大社の宮司だと書かれていたので、逆に当時あまり興味が湧かなかったのだが、バリバリの神道一筋の人で、精神論的な宗教の本だと思っていた。
ところが読み始めると、作者は確かに公家の出だがそれとは関係なく、医者の道を進み、しかも当時ほとんどしられていなかった「形成外科」をめざし頑張ったという。
ただ、阪大の医学生の時に、肺結核と診断され結局吐血して、戸板に載せられて東京の実家に帰ったという。
その時知人から渡された「宗教」の本を読んでいたら、感激のあまり涙があふれて止まらなかったという。
その経験が、東京についてから少し休養して、再診してもらうと、肺結核が跡形もなく消えていたという。
砂澤さんの話もずいぶんと不思議な話があるが、結核が消えるという話もにわかには信じがたい話である。
ただ、最近スピリチュアル系の本を読むと、その手の奇跡がいくつも出てくる。
その葉室さんは「形成外科」という特殊な医療の専門家なのだが、彼は逆に西洋医学の考え方が間違っていて、東洋医学の考え方の方が正しいという。
彼自身、鍼を習得して、ずいぶんと治療に応用したらしいし、奇蹟的な回復をいくつも経験したらしい。
そんな彼が晩年、神道の勉強をして、宮司になったというから、最初は「家柄」もあるだろうし、何かの七光り的なもので「宮司」という職につけたのかと思ったら、さに非ず。
実際に試験を受けて、神職の最高階位「明階」を得られたとのこと。
それが縁で、自分の先祖とも縁の深い神社に次々に導かれたという。
この話で特に面白いのは、葉室家は女系であり、男が育たなく、過去ずいぶんと婿養子を迎えて血筋を保ったという。
公家であるが特に藤原家の血をひく家柄で、天皇と神社を結ぶ仕事をしてきた家柄なのだが、明治以後、公家の制度が廃止されたにもかかわらず、ひいおじいさんも、軍人であったおじいさんも、そして武家から養子に来て、銀行員であった父親も、すべて晩年には「宮司」という職に導かれているという。
しかし、すべて婿養子であり、遺伝ではないはずという。
その自分も結局最後には「宮司」に導かれたわけで、そこにまさに人の人生は神から導かれたものを感じるという。
そんな人が書いた本なのだが、「明階」は神社界でもなかなか得られないほど難しいものらしく、「神道」についてずいぶん勉強したといわれる。
その彼が書いたものだから、今までの古神道や神道でも、一般人には難しい話が書いてあるのではなく、医者としての経験や、「宇宙のしくみ」などが解りやすく説かれている。
特に神道バリバリの宮司なら絶対に言わない、「宇宙の成り立ち」について、最初は「無」から始まったものだが、そこに偶然ではない、明らかに「意識」が存在しなければ、無から「有」を創りだせないし、宇宙のすべてのものは「バランス」で成り立っていて、そこに人間の「我」が入り込むと、宇宙のバランスを崩し、結局は人類は破滅することになる。
ところが、宇宙を作った「意識」というか「こころ」は、実は人間を作ることで「自分」の姿を確かめたいと思っていると書かれている。
この手の考え方は、神道というより「スピリチュアル系」の考え方と一致するのだが、しかし面白いことに「<神道>のこころ」は1997年に書かれたものらしい・・・・
すると最近の「シークレット」や「神との対話」よりも古いことになる。
少なくてもそれらよりも、もっと古いマーフィ以前のゴダードやベーレンの考え方を葉室氏は学んだか、あるいはまったく独自に考えて、同じような結論に達したか?
いずれにしろ、「明階」を取られた方が、こういう新しい考え方をされているということが、素晴らしいと思える。
で、実際に彼が春日大社の宮司になった時に、「ここは潰れる・・・」とおもったという。
それは「神道 見えないものの力」に書かれているのだが「不易流行ということ」という項目に
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私が春日大社にきていちばん最初に、この大社はつぶれるぞと言ったんです。 ここは不易だけやっていた。 昔の伝統をあくまでも維持しょうとしていたんです。 いまは地球の環境がすごく変わってきているでしょう。 世界がこんなにも急激に変わることはいままでありませんでした。 そして日本はいま、始まって以来の環境の変化の中にあります。 神社といえども、これに順応していかなければ滅びる。 だから流行をやらなければいけないと言い続けています。 祭りというのは、原点に返って、厳格に古式どおりやる。 一方ほかのことは、時代に応じて順応して変えていく。 そういうことでなければならないということで、いろいろと改革をやっているんです。
ところが、それにきがついていない神社もあります。 ただ昔のことだけ守ればいいと思っている人がいますね。 そうすると、どんな格式のある神社と言えども、だんだん落ちぶれる方に進んでいく。 ですから、不易流行というのはそういうことです。 逆に不易をやらないで、流行だけで変わるというのは変化です。 変化だけでも滅びるんです。 そこに伝統を伝えつつ変わるという矛盾したことをやるのが進化であり、これをやらなければいけないのです。
いま日本は歴史と伝統を捨てて、アメリカのものを持ってきて変化だけしたわけです。 だから、今のような国になってしまったんですね。 そうではなくて、伝統を伝えながら時代に順応していかなければいけないんです。 これをまったくやっていない。 だから滅びると言っているんです。 感謝しないと滅びると言っているわけです。 もう変化するのはいいんです。 今度は不易をやらなければいけない。伝統を伝えることです。 流行ばかりだったら、本当に滅びてしまうでしょう。
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と、言われていますが、まさにこの考え方は私の考え方と同じで、先日HPに付け加えた「はじめに」というページに
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しかし「目に見えないもの」はそういう「かたち」の在るものだけではなく、そこには「先人」つまり、それを残した人の存在があり、「何故」それを残したのか?
その「思い」こそ、残すべきものだと思います 。
そしてその先人が存在したから、現在のわれわれは「在る」のだと言うことを、私達は忘れてはならないと思いますし、そしてそれが本来その文化財の本当の価値だと「内なる存在」は教えてくれました。
先人とは、個人的に言えば、「先祖」であり、社会的に言えば「組織の創始者やその意思を受け継いできた人たち」を差します。
そして、我々がその「先人」の残したものを、次の世代に繋がない限り、また我々の残したものも、次の世代に引き継がれないということです。
唯物論や科学というものを、我々の時代は信じ切っていますが、実はそれ以上に大きな「目に見えない存在」があり、それらが本当は我々を動かし、生かしているということを忘れていると葉室さんも説かれていますが、その「神」の意思を活かすために、私はこの仕事に導かれたと信じています。
ずいぶん昔の話ですが、当社の技術をある社寺の出入り業者の方にお見せしたら、「なんや、実物が綺麗になるのと違うのか?」と、がっかりされたのですが、魔法でも使わないと朽ちたものは元には戻りませんし、また形あるものはいずれ朽ちて土へと還るのが、自然の法則です。
本当のモノの価値は、物質にあるのではなく、その中身こそ本来の価値を持つものです。
ですから私は、デジタルは物質を有しておらず、朽ち果てることもありませんから、まさに「デジタル画像による文化財復元」は、その先人の「思い」を朽ちることなく、後世に伝えられる大事な技術であると確信しております。
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と、書いていますが、、大事なのは「残された物」ではなく、「残されたおもい」なのですが、この考え方を理解いただけないことは、とても残念ですね・・・・・
(資)文化財復元センター おおくま
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