昨日ブログに載せた「平成プロジェクト」の代表をされている益田祐美子さんが、最初に手がけられた「風の絨毯」という日本とイランの合作映画。
どうもずいぶん撮影にてこずったものの「東京国際映画祭」の「特別上映作品」に選ばれたり、イランの「ファジール国際映画祭」で3冠をとった作品との事。
しかしながら、自慢じゃないけどここ20年以上映画館に足を踏み入れたこともないし、芸術映画の類はほとんど見たことがないのが実情である。
その間、私は「写真」一筋で、技術的なことを追求したり、表現すべき「ナカミ」についてはいろいろと考えることは有ったけど、映画を鑑賞する余裕はなかったと思う。
で、その益田さんが書かれた「私、映画のために1億5千万円集めました」の本を読み、いろいろとお金を集める苦労話と、イラン人監督が撮ることでの裏話が載っていた。
興味がわいたので、ぜひその映画を見てみたいと思い、近くのレンタル屋へ行って見た。
実は「風の絨毯」と「平成職人の挑戦」の2つを探したけど、結局「風の絨毯」だけが有り、借りて返り早速見てみた。
ところが・・・
私自身が普段映画に興味を示さないことも手伝ってか、見ていても「なんか違うなぁ・・・」という印象は受けるものの、「すばらしい!!」と感動することも正直言ってなかった。
と、言うか・・・
益田さんの本を読んでいるから、大まかな粗筋や裏話がわかっているから、その知識をプラスすることにより、なんとなくストーリは解るものの、なんと言うか・・・確かに「日本人の感覚ではない」という印象が残ってしまった。
もちろん、イランロケでの日本人親子の描かれ方もそんなんだろうけど、それ以上に「高山ロケ」の場面が、なんか見ていて消化不良というか、痒いところに手が届かないイライラ感というか、そういうところは「日本人の感覚じゃない」と感じてしまった。
実は何度か高山へは撮影に言ったことがあり、確か5月頃だったか高山祭の時期にも撮りに行った事がある。
だからこそ、「僕だったらこう撮るのになぁ・・・・」と思ってしまう。
この感覚って、実は今回が初めてではなく、若いころは仕事を離れて「舞台写真」をライフワークとして撮っていたことがある。
舞台といっても舞踊・ダンス・舞踏の類であり、ただ「記録」として撮るのではなく、私には私なりのテーマがあり「人間のカラダが創りだすフォルムとしての美しさ」という狙いで撮っていた。
「だから」というか、あるいは「だけど」と言うべきか・・・
カメラのファインダー越しに舞台を見ることは大変感動するのだが、それは一瞬一瞬を切り取っている自分の「目」としてである。
だけど、カメラを手放して、ただ舞台を、いゃ舞踊を見たいとはぜんぜん思わなかったのが当時の正直な気持ちである。
だから、時々テレビでそういう舞台の中継があると、どうしてもカメラワークとして「どう切り取るか?」と言うことばかり見ていて、自分と比較してしまう。
だもんで、正直言って舞踊を被写体としては見ても、「味わった」覚えがなかったりする。
今回の「風の絨毯」の祭のシーンなんかも、結局は「カメラマンの目線」で見てしまうことになる。
ましては、日本人と感覚の違うイランの監督が描く高山の風景にはどうしても違和感を感じてしまう。
で、もう一つ、写真をやるものの「視線」として気になったのが「色」である。
私も何度か外国でと撮ったことはあるものの、そういう色の違いと言う事ではなく「カラーバランス」の違いに目がいってしまった。
元々私は撮影以外にプロラボで「カラープリント」の仕事をしていた時期もあり、「ノーマル」のカラーとはどういうものなのか?
を十分知っているもので、映画の世界や時々テレビのCMでは、わざとそれを崩した映像にお目にかかることがある。
今回の風の絨毯はさほど強烈ではないものの、益田さんの本には「富士フイルム」を大量にイランに送った話しが出てくる。その日本のフイルムを使っているのに、カラーバランスが少し違う。
これは専門的な話になるが、フイルムは実はシャドー部分とハイライト部分で、カラーバランスが少し違うことがあったりする。
その影響だと思うけど、この映画のシャドー部分が少し緑っぽい仕上げになっているなぁ・・・・と見ていて感じてしまった。
意図してそうされているのだろうか、それても現像でバランスが少し狂ったのか?
どうしても、そういう自分の専門分野に目がいってしまい、舞踊を純粋に味わえなかった自分の姿がまた今回ダブってしまう。
でも、これじゃいけないと思い、再度益田さんの本を読み直し、そしてもう一度帰ってから「風の絨毯」を見てみようと思う。
おおくま
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