②-思い (我思う故に我あり)

欲を出すな、無心になって、神にゆだねろ・・・

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私はこの前から「意識」について、何度もブログに書いているのだが・・・

の中で私は

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先日も書いたが、もう20年以上前から「精神世界」で学んでいる私でさえ、「理屈」としては理解できるが・・・・

しかし100% は、納得はいかないと書いた。

つまり、90%くらいは「納得」できるけどと・・・・

その件で、今朝も易神と喧嘩したのだが、「無心になって神に委ねろ!!」と言われて、じゃ本人は何の努力もしないで、「のほほぉーーーーん」としていりゃ、神様が喜んで「いい人生」を送らせてくれるの??

と、思うよね????

仮にそれが事実だとしたら・・・・

じゃ「」って、何のために何度も何度もいろんな人生を経験してるの?

つまり「経験から学んで」「魂を磨くため」じゃないの??

って、疑問がわくわけよ・・・・・

つまり、「本人の努力」が欠かせないはずなんだけど・・・

なのに「馬鹿になれ」とか「無心になれ」とか言われるのって、おかしくない??

確かに「」は一番いい人生のレールを用意してくれていて、そこから外れると・・・・「勝手にしろ!!」と放りだすわけか???

そりゃ・・・無いやろ??

つぅことは・・・・

本人の努力」と「神に委ねろ」と言う話は、一見矛盾しているように思えるけど・・・・

でもホントは、その両極端にも「兼ね合い」があるはずなんよ・・・・

そこの兼ね合いというところが、20年以上学んでいても、まだわからないんよね・・・

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と、神のいっている「無心になって神にゆだねろ」ということと、「」は輪廻転生し、人生において多くを学び、「魂を磨く」ということとの「矛盾点」がどうしても解決できないといった。

つまり片方は「無心になって何もするな!!」と言い、もう片方では「人生から学んで魂を磨け」という相反することって、どうしても「3次元脳」では理解できないから、何度も「易神」にかみついていたんだけど・・・・

ここ数日、なんとなく「もやもや・・」としたイメージが心の中にあったわけ・・・

その解決の一つは「自問自答」や「易神」とは、本当の自分(真我)だということが理解できた。

だけと・・・

もう一つ、何度も「易神」に嚙みついた、「無心になって神にゆだねろ」と「人生で学んで魂を磨け」という相反することの「」が、今朝やっと解かった!!

それはその答えは実はもう10年前に書いた

の中の「PS」の中にあった!!

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与えられる思念に対するシュメールの神官の認識

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 シュメールの叡智を保つ者たちは、「聖なるリズム」を自分の利益のために用いることをしなかった。なぜならそれは必ず、反作用を引き起こすことを知っていたからである。

 日本人がする「年末の大掃除」の習慣は、シュメールの習慣に近いものがある。これを10日早く行なえば、自然のリズムに重ねることができる。この期間に 不要な物を捨てると同時に、心における過去も捨て、澄み切った魂になることは自然のリズムにかなっている。このことをもっと大きなリズムで行なうべき時 に、今、現代人はいるのである。

 人間の努力には、本筋から外れた努力というものがある。現代人の中には、そうした努力によって自分を見失っている人が大勢いる。現代の文明にしがみつい ている人々もそうである。一度頂点に達した文明が死期へと至るとき、なおもそれにしがみつこうとした人々は、過去の文明でもたくさんいた。一度握った権力 を手放さず何とか維持しようとする人々、死期にあることに気づかず、今からそれを追いかけようとする人々は、そうした生き方によって結局、過去においても 自らを失うことになった。つまり、その努力そのものが、彼らを宇宙のリズムから引きはがすのである。

 宇宙のリズムに合致した努力には必ず、あふれ出るような使命感や躍動感、爽快感を伴うものである。それらが感じられない努力は、いかなる努力であろうとも、宇宙のリズムから外れている。

 シュメールでは、人間の思いである思念は神から与えられるものと考えられていた。与えられた思念である以上、それは必ず宇宙のリズムに合致する。つまり それを受け取るためには、受け取るための魂の空間を用意しなくてはならないというのが、シュメールの神官の思考に対する認識であった。

 そのようにして用意された空間に、節目(ふしめ)の時には必要な思念が舞い降りる。そしてその思念は、次のサイクルに向けて強い創造力を発揮するのであ る。自ら作り上げた思念によっても物事は成就することができるが、しかしそれらは長期的には宇宙のリズムを壊すのである。

 思念というものは、心が空白でありさえすれば、必ず各人にもっとも必要なものが与えられるようにできている。それは自ら作り出すものではないことを現代人は知らなければならない。それを受け取るべき「時の中心点」が、「節目の時」である。

 宇宙の星々は自らの主張のためにスピンするのではない。星々は中心の力にうながされ、その力に自らをゆだねることによって行なわれるスピンという自己完 成の悦びに打ち震える。宇宙の存在は、波に自らをゆだねるサーファーのようなものであり、いかにゆだねられるかですべてが決まるのである。

 宇宙は、必要なところに、必要なだけの、必要な配置を与える。その計算に狂いはない。しかしながら、個人の意志で何かを目指し、個人的な思いの力でそれを実現しようとする者であふれる時、それはすでに、思念の次元に摩擦と闘争を生み出しているのである。

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この中にあったことに今朝、気が付いた!!

この中の

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シュメールでは、人間の思いである思念は神から与えられるものと考えられていた。与えられた思念である以上、それは必ず宇宙のリズムに合致する。つまり それを受け取るためには、受け取るための魂の空間を用意しなくてはならないというのが、シュメールの神官の思考に対する認識であった。

 そのようにして用意された空間に、節目(ふしめ)の時には必要な思念が舞い降りる。そしてその思念は、次のサイクルに向けて強い創造力を発揮するのであ る。自ら作り上げた思念によっても物事は成就することができるが、しかしそれらは長期的には宇宙のリズムを壊すのである。

 思念というものは、心が空白でありさえすれば、必ず各人にもっとも必要なものが与えられるようにできている。

それは自ら作り出すものではないことを現代人は知らなければならない。それを受け取るべき「時の中心点」が、「節目の時」である。

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というところ・・・・

つまり神は「無心になって、宇宙の思念を受け取るスペースを空けろ!!」と言っていたわけで、受け取るスペースを空けないと、「恩恵」は神としては与えようがない・・・・

それは「人生から学び魂を磨け・・・」という話とは、全く別な話なのだということを「易神」は私の「自我」の自問に対して、「真我」が私に教えてくれたことになる・・・・

これで95パーセントは神の話に納得できるようになった・・・オイオイ

くまさん

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