ぽりちぃ・・・

【ぽりちぃ・・・】
2006年05月25日02:34全体に公開

この文はこの前から話しているようなことだけど・・・

昔はもっと「的確」に鋭く話しているね!!
18年も前だもんなぁ・・・
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僕にははっきりしたポリシィがある。
それは、「文字によるコミュニケーションの限界」と言うことを知っていること。
ヒトの意思を伝える時、一番確実だとみんなが思っていること、それは「ことば」だと思う。
音楽や美術やそして写真でもそうだけど、はっきりと自分の意志が相手に伝わることは無い。

しかし、「ことば」は違うはず・・・
ヒトは、いゃ国民は・・と言うべきか、それぞれ「共通の言語」を持つ。
それにより「コミュニケーション」は成り立っている。

はず・・・

だけど、いゃ、「でも・・・」というべきか?果たしてみんな「一つの言葉」に対して「同一のイメージ」を共有できているのだろうか?

実はそれは「ありえない」事である。

僕はよく話すんだけど「常識」という言葉をヒトは好んで使う。
それは、「自分は常識を持ち合わせている」という「前提」の元に、みんな好んで使う。

つまり、「自分の考え方」は、「間違っていなく」、そしてそれは「みんな同じ」考えをしている「はず・・・」と言う誤解の元に成り立っている。

だけど、みんなに「共通の常識」なんて、実は世の中には存在しない。
十人十色・・・
百人いれば百通りの常識が存在する。

あえて「共通」が有るとしたら、それは「国民性」「生まれ」「育ち」「教育」「環境」「職業」「宗教」等の「共通項」を持ち合わせた間でなら、似たような常識は通用する。
しかしながら、育ちも違えば、教育も違う、ましては宗教が違えば、まるっきり逆の「常識」を持ち合わせていても不思議ではない。

「常識外れ」とは、「自分の常識」に当てはめた場合、外れているだけで、相手の常識から見れば、外れていないわけである。

じゃ、どちらが正しいか?というと・・・

実はどちらも正しいわけである。

世の中、何でも
2極に例えられる。
「善と悪」「西と東」「暗と明」・・・
この中には、正と誤として扱われることが多い、つまりどちらか一つが正しいことを強調するために、相対するものとして強調される。

だけど、現実は違う・・・
どちらも正しいし、どちらも間違っているし・・・

そう言う感覚を、人々は果たして何人持ち合わせているのだろうか?

その際たるものは「ことば」だと思う。
ヒトは自分の意志をことばに託して、相手に伝える。
だけど、ホントに相手の一つのことばに持つ「イメージ」は同じなのだろうか?
実は、一つのことばでも、「受け取り方」でまるっきり逆に取られることは多々ある。
その際たるものは「文字によるコミュニケーション」である。

しかし、同じひとつの単語であっても、仮にその一言を「本人の口」から発せられたことばであれば、そこにはまた別の情報が加算される。
つまり「感情」がそのことばに加算されることにより、「文字」よりはまだ「本人の意思」の伝達の可能性は高くなる。

まして、顔を合わせて、話をすれば・・・
さらに「表情」と言う情報が加算されて、「より」本人の意思は伝えられやすくなる。

で、話を戻すと、仮に「文字」によるコミュニケーション一つをとっても、「1対1」でのやり取りであれば、相手の性格や受け取り方を考慮して話が出来る。
だけど、いったら悪いが「日記」というか、ブログの書き込みは・・・
自分が一方的に発しているわけで、受け取り手のことを果たしてどこまで考慮できているのだろう??

僕はそこに疑問を感じる・・・

だから、僕はヒトのそう言う「不特定多数」を相手にした書き込みを読みたいとも思わない。
特に覗き見の趣味も無いし・・・・

だから、僕は好んで日記を書きたいとは思わない。

あしからず・・・・

くまさん

コメント

  • SORO

    SORO2006年05月25日 04:41 削除
    僕は、くまさんの文章が大好きだ。強いていえば「養老タケシ」と、なにか共通するものが有る。読んでも理解できないよ。でも書くから5割位は分かってよね。的な多少の諦めを持っている。文章は読み手により、逆の理解さえあるのだ。
     今回、おそらく「別れた妻に対するSOROの鈍感性に失望して文章を整理したのではないか?」と僕は推察する。
     差しさわりの無い感想が常識と思うが、分からない人間が勝ってに創造して、その後を考えてみる事は許されている範囲内と考えている。
     でも、真剣に書いた原作者が、あまりにもかけ離れた、寸評を掲載したら「頭にくる」事も理解できる。
     僕の寸評が不愉快でしたら、お許しください。
  • くまさん

    くまさん2006年05月25日 10:55 削除
    SOROさん

    僕は別に貴方のこととは関係なく、もうこう言うネットの世界に20年以上います。
    だけど、未だに馴染めない・・・

    パソコン通信の、ニフティサーブの「写真フォーラム」のサブシスを、10年ほどやったことがあります。

    つまり、「写真」という話題で会議室形式で、ワイワイやるわけです。
    創世紀に入ったもので、メンバーは100人足らずでした、最初は・・・

    少ないうちは、いわば「仲間内」というか、結構似たような考えのものが集まるし、何度か文字のやり取りを繰り返し、またオフ会などで顔をあわせれば「気が知れた」間なりますよね。
    つまり「一つの文章」に隠された情報を読み取れる間になるわけです。

    ところが、数年立つと、数千人、数万人とメンバーが増えてきます。
    ちょうど、今のインターネットのように、急増します。

    すると・・・・

    確立がたとえ同じであったとしても、100人のうちの例えば1人、違った考えのヒトが入ったとします。
    俗に言えば「常識が違うヒト」ということになるでしょうね?

    それが、千人、万人とメンバーが増えれば、10人、100人と異質なヒトの数は増えます。
    「フォーラム」はメンバーが増えても、発言するヒトはさほど増えないわけです。

    すると・・・
    たとえ1%の異質な考えのヒトであっても、発言するヒトの人数に置き換えると、パーセンテージは上がります。
    すると、「侃々諤々」と会議室内で議論が沸騰します。
    勿論それはいいことなのですが・・・

    ヒトは必ずしも「言葉」に対して「共通イメージ」を持たないわけです。
    すると、「発言者の意図」と「違った受け取り方」をするヒトが増えてきます。
    例えばある人の意見に対して「反論」がされます。
    当然反論したヒトは、元の意見と「正反対」だと思って意見を述べています。

    ところが、それを「第三者」が、ボード上で読むと、実は「おんなじじゃないの?」と思えることが多々あります。
    でも、言った本人は「違う」と、思っているわけです。

    これがエスカレートすると「バト」るんですね・・・・
    そう言う、文字によるコミュニケーションの限界を自覚できれば、ある程度自分でも抑制できます。
    ところが、実は自覚できていないヒトのほうが、圧倒的に多い。
    なんども、僕の意見に「噛み付く」ヒトが居ました。
    僕の意見とその人の意見は、実は「似たり寄ったり」なんだけど、相手にはそれが解からないらしく、何度も食って掛かられて、胃が痛くなることが有りました。

    大事なことは「客観視」だと思います。
    世の中にはいろんな考えのヒトがいます。
    そして、誰も自分は間違っているとは思っていないわけです。

    一つの「事実」を取ってみても、「自分の立場」で見れば、自分の考え方は間違っていない。

    だけど、立場を変えて・・・
    「相手の立場」で同じモノを見たとします。
    すると・・・
    実は違って見えてくるんですよ・・・

    夫婦の間はまさにそれなんです。
    離婚の原因は、ほとんどのヒトは「相手の浮気」「相手の暴力」「相手の借金」「相手の価値観」等が原因だと思っています。
    自分は被害者だという意識が非常に強い。
    だから、自分は悪くないんだから、相手さえ「いいヒト」にめぐり合えれば、自分は今度は幸せになれると思ってしまう。
    そして、出会い系でそう言う相手を探す。

    勿論、僕もその一人でした・・・

    にゃるほど・・・・と思えますよね?

    ところが、逆にその別れた相手は?というと・・・・
    自分が悪かった・・・許してくれ・・・・と思っているでしょうか?
    違いますよ!!  相手には相手の「言い分」があったりします。
    少なくても、自分が一方的に悪かったとは思っていないでしょう・・・・

    物事は必ず「原因」が有って「結果」が有ります。
    自分にとって「相手が悪い」と言うのは「結果」に過ぎないわけです。
    だとすれば、「原因」はなにだったのか??

    一番大事なのはここなんですよ・・・・
    実はその原因の「少なくても一端は自分には無かったか?」ということをもう一度考えてみたほうがいいと僕は思います。

    例えば「浮気」を取ってみても、相手が一人で、いゃ勝手に始めたものなのか?
    逆に相手は「言い分」が合ったりします。
    それに耳を傾けて、自分に原因があれば反省し、直さないと、「自分は悪くない」と考えていたとすれば、また「同じ過ち」を犯すことになります。

    2極化として、善悪とか正誤とか、「相対する」モノとしてではなく、オトコとオンナは「凸と凹」「+と-」「阿と吽」のように相反するモノではなく、実は「一対」だと思います。
    同じモノが二つじゃ、「一対」とは言いませんよね??
    違うもの同士だから「一対」なんですよ・・・・

    相手の自分と違う部分は「認め合う」必要が有ると思います。

    これはそう・・・夫婦に限らず、コミュニケーションの基本でしょうね・・・

    くまさん

  • SORO2006年05月25日 12:46 削除
    拝読して感服しました。おっしゃる通りで、夫婦関係においても一寸一分その通りです。(これは心から)・・・そうすると、僕とくまさんの意見は同一で議論の対象にはなりませんね。それは、それは嬉しかったです。僕がくまさんを怒らせた訳ではなかったのですね。嬉しいです。
     また、人間関係のあり方を明確に再確認する事が出来ましたのは感謝です。
     これからも、不徳な私ですが、色々と教えてください。
     くまさんへ    SOROより
カテゴリー
③とある女性とのやり取りの記録
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