私は何度も言うのだが、子供のころから友達と遊ぶより、独りで「物思い」にふけるのが好きだった。
そして、若い頃から世の中に疑問を抱くようになり、その答えを自分自身に対して「自問自答」するようになった。
すると、少し時間が経ち、それを忘れたころに、どういうわけか、その答えが閃いたり、また気が付くといつの間にか、自分の中にその答えがあることに気が付いた。
ただ、その答えは、「巷の常識」とは少し、いゃ、まるで違う・・・
だけど、それを間違っていると一度も思わなかったから、「私の価値観」はそれに基づいて形作られた。
時が過ぎ・・・
「画像による文化財復元」と言うとても特殊な仕事に導かれた。
導かれたと言っても、誰も信じようとしないが、多くの不思議な出来事が絡み、その先にこの仕事が用意されていた。
用意されていたと言っても、準備万端「さぁ・・・いらっしゃーーーーぃ!!」と、迎えられたわけでもなく、「デジタルによる復元技術」は前例の無い状態から、私が「試行錯誤」で創り上げた。
と、偉そうなことを言っているが、それは私が優れているのではなく、「見えない世界」からその技術を「閃き」として与えられ、それを何度も試すだけである。
私が「導かれた」と言ったのは、まさにこういう裏付けがあり、またこの技術・・・
2000年の秋に始めたのに、すでに17年経つのに、日本はおろか、世界的にも同じ技術を持つ者は、だれ一人いない。
その間に私もこの仕事に対する考え方が、随分と変わった。
もう10年ほど前から「ナカミ」というものを大切にするようになった。
これも見えない世界からの教えだと思うが、人は四十を過ぎると顔に責任があると言われる。
持って生まれた美貌は衰えても、今度は人生で学んだ事が顔に出る。
つまり、ナカミがソトミに表れる。
「文化財とは何ぞや?」と自分に問うた・・・
すると返った答えは、簡単明瞭「文化を形に表したもの」と言える。
では、その「文化とは何ぞや?」と、問うと・・・
返った答えは、さらに簡潔に「人の精神的な営み」と返った。
つまり、文化財で本当に大切なものは、決して「物質」として残すことではなく、「それを創ったものの思い」こそ、残すべきものである。
こんなバカげた話をするものも、世界広しと言えど、私独りである。
と、随分と前置きが長くなったが、数か月前まで、私は今の世の中は間違っているけど、「政治家」をいくら替えても良くならないと諦め、政治に無関心だった。
ところが・・・
これもどういうわけか、その政治に関心を寄せるように「見えない世界」から促されたらしく、急に前回の選挙の時から、活発に主張するようになった・・・
するとそのうち・・・
どうも「今の世の中を変えようとする運動」があることに気が付き、その情報を随分と探り始めた。
以前から、世界の富の大半は一部の富豪たちが握っていると言う話も聞いていたし、それらが「ユダヤ資本」と言われる、ロスチャイルドやロックフェラーたちであることは知っていたし、彼らは徹底的に世界を支配しているから、とても彼らをやっつけることはできるはずがないと、これも諦めていたのに・・・
どうやら、世界規模で彼らを殲滅するための戦いが、繰り広げられていることを知った。
何やらホワイトドラゴンと言うアジアの王族たちの集まりが、実は元々世界の2/3以上の金塊を持っていたらしい・・・
また別の話で、昭和天皇は実は太平洋戦争時に、中国や東南アジアからそれらの金銀財宝を略奪して、隠し持つと言う話にもたどり着いた。
ところが、アメリカを現在支配しているのは、ハザードマフィアと呼ばれる例の「偽ユダヤ資本」らしく、彼らはそのアジアの王族から金塊を借り受けたにもかかわらず、それを返そうとせず、訴えたものは暗殺してきたらしい・・・
そんな裏の話も聞いたが、そのハザードマフィアに、プーチンやそのホワイトドラゴンや中国をはじめ、世界上のほとんどの国が一体となって立ち向かっているらしい・・・
この動きはすでに数年前から始まっていたらしく、現在ほとんどのハザードマフィアは殲滅され、残るはアメリカを牛耳るロックフェラー一味だけらしい・・・
(資)文化財復元センター おおくま
私は仕事がらみで、不思議な出来事を随分と体験した。
だから、「目に見えない不思議な力」の存在を否定できないし、目に見えない世界と、私の「画像による文化財復元」とは切っても切れない関係だと知っている。
と、いくら言っても「目に見えないものを信じない」多くの人びとは、私の言うことを信じない。
それは、人の意識にも言えて、「顕在意識」と「潜在意識」とが存在するが、しかし我々がものを考えたり、覚えたりするのは「顕在意識」の中だけである。
「潜在意識」はそれと比べ物にならないくらい、広くて深いのだが、そこには目に見えないが確かに存在する、魂や霊や内なる神が住み、輪廻転生して生きてきた過去世の記憶をはじめ、宇宙のすべての記憶がアガシックレコードとして記録されていたり、またその一番奥底では「集合的無意識」という、人と人、人と地球、そしてすべての宇宙がすべて繋がっていると言われる。
繋がっているということは、そこでは「争い」ではなく「共存」しているということ。
ところが・・・・
我々が普段活用する「顕在意識」には「我」があり「欲」がある。
欲があるから、「自分だけ得する」ことを考え、相手から「奪う」
また「引き寄せの法則」がブームになったが、私もいろいろと本を読み試してみた。
しかし、書かれているような効果は出ない。
あれで得したものは、著者や出版社、そしてブームを利用して儲けた輩だけ・・・
何故なら・・・
集合的無意識で、人は繋がっているということ。
それはどういうことかというと、人間は一人では生きていない。
つまり自分が何か行動を起こすと、必ず「対する相手」という存在がある。
自分が得するように行動をとれば・・・・
相手は損をすることになる。
つまりプラス・マイナス=ゼロとなる。
そういう欲を出すものに、神は味方してくれない。
しかし、実は目には見えない力で、我々一人一人の人生をコントロールしている。
解ったことは、自分で欲を出して行動するな!!
何も考えずに「神にゆだねろ」ということ。
それが神が一番自分にとって良い人生を、送らせてくれる方法だということ。
(資)文化財復元センター おおくま
PS
この文は昨夜、急に別の事を書くつもりで書き始めたのに・・・・
こういう内容となった。
それはそれで、良いのだが、実は今朝facebookのリンクで「8章 世界四大文明 : 地球人のルーツ」
と、言うページにたどり着いた。
そこにはあまり知られていない、地球上の文明の「周期」について書かれているのだが、驚くべき正確さで我々は動かされてていると言う。
そこに書かれていたのだが
与えられる思念に対するシュメールの神官の認識----------------------------------------------------
シュメールの叡智を保つ者たちは、「聖なるリズム」を自分の利益のために用いることをしなかった。なぜならそれは必ず、反作用を引き起こすことを知っていたからである。
日本人がする「年末の大掃除」の習慣は、シュメールの習慣に近いものがある。これを10日早く行なえば、自然のリズムに重ねることができる。この期間に 不要な物を捨てると同時に、心における過去も捨て、澄み切った魂になることは自然のリズムにかなっている。このことをもっと大きなリズムで行なうべき時 に、今、現代人はいるのである。
人間の努力には、本筋から外れた努力というものがある。現代人の中には、そうした努力によって自分を見失っている人が大勢いる。現代の文明にしがみつい ている人々もそうである。一度頂点に達した文明が死期へと至るとき、なおもそれにしがみつこうとした人々は、過去の文明でもたくさんいた。一度握った権力 を手放さず何とか維持しようとする人々、死期にあることに気づかず、今からそれを追いかけようとする人々は、そうした生き方によって結局、過去においても 自らを失うことになった。つまり、その努力そのものが、彼らを宇宙のリズムから引きはがすのである。
宇宙のリズムに合致した努力には必ず、あふれ出るような使命感や躍動感、爽快感を伴うものである。それらが感じられない努力は、いかなる努力であろうとも、宇宙のリズムから外れている。
シュメールでは、人間の思いである思念は神から与えられるものと考えられていた。与えられた思念である以上、それは必ず宇宙のリズムに合致する。つまり それを受け取るためには、受け取るための魂の空間を用意しなくてはならないというのが、シュメールの神官の思考に対する認識であった。
そのようにして用意された空間に、節目(ふしめ)の時には必要な思念が舞い降りる。そしてその思念は、次のサイクルに向けて強い創造力を発揮するのであ る。自ら作り上げた思念によっても物事は成就することができるが、しかしそれらは長期的には宇宙のリズムを壊すのである。
思念というものは、心が空白でありさえすれば、必ず各人にもっとも必要なものが与えられるようにできている。それは自ら作り出すものではないことを現代人は知らなければならない。それを受け取るべき「時の中心点」が、「節目の時」である。
宇宙の星々は自らの主張のためにスピンするのではない。星々は中心の力にうながされ、その力に自らをゆだねることによって行なわれるスピンという自己完 成の悦びに打ち震える。宇宙の存在は、波に自らをゆだねるサーファーのようなものであり、いかにゆだねられるかですべてが決まるのである。
宇宙は、必要なところに、必要なだけの、必要な配置を与える。その計算に狂いはない。しかしながら、個人の意志で何かを目指し、個人的な思いの力でそれを実現しようとする者であふれる時、それはすでに、思念の次元に摩擦と闘争を生み出しているのである。
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まさに、私が昨夜書いたものと一致する。
とても難しい話をしよう・・・・
何度も話に出すのだが、量子力学と言う世界において「観察物は観察者の影響を受ける」という理論があるらしく、一番知られた話がアインシュタインの「月は見なくてもそこに存在する」といった話。
つまり、月は人が見ていようが、見ていまいが、ちゃんとそこに存在するのは当たり前だ!!と言う。
一方ボーアは「シュレーディンガーの猫」というたとえ話を持ち出した。
私は専門家ではないので、うまく説明できないが、箱に入れた猫の生死は、箱を開けてみないと解らないと言う話らしい・・・
つまり、「見た」時点で、どちらかが決定されると言う。
それまではどちらともいえない・・・
先日、facebookである人と議論になった。
彼は私の目から見ると、「間違った情報」を与えられているのに、それを鵜呑みにしている。
ところが私がそれをいくら説明しても・・・
逆に、火に油を注ぐ勢いで、反発してくる。
私は元々他人の話しを鵜呑みにしない・・・
そして物事に疑問を抱くと、それを自分で確かめようとする性分なんだが・・・
一方、その相手は、「権威あるマスコミ」がうそを言うはずがないから、素性の知れない、どこの馬の骨だかわからないやつらがブログに書いていることを、信用できるか!!というわけである。
彼にとっては、マスコミや政府が国民に対して、騙したり、嘘を言うわけがない・・・・
そう「思い込んでいる」わけである。
私は逆に「自分の頭」で物事を考える性分だから、決して他人の話しを鵜呑みにしない。
ただ、私は偏って思想を持たないと自分では思うし、釈迦が言う「中庸」な気持ちで物事を見ている。
しかしながら、その意味を理解できる人は、巷ではとても少ない・・・
このカエサルとはシーザーの事らしく、『人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない。』という言葉が有名らしい・・・
意味が解る人は少ないだろうが、たとえば二人の人が映画館で、同じ映画を並んでみたとする。
当然同じ映像を「網膜」では感知しているはずなのだが・・・・
どうやら、変な話だが、あとで二人がその映画のストーリーを話し合ったとする。
当然同じ結末のはずなのに、ひょっとすると「違う結末」だと受け取っていると言う「可能性」があると言う。
おかしな話だが、今、日本の政治もメチャクチャだが、それを逆に取って、「理想的」な状況だと目に写っている人がいるわけだ・・・
それが自民党の支持者であるが、これが世界レベルで物事を考えた場合・・・
日本のマスコミでは、自民党と電通の圧力で、「事実」を伝えられないらしく、世界の情勢を「客観的事実」として報じられない・・・
むしろ逆の情報が流されているのに、それを疑うことなく、信じ込むのが日本人の性格らしい・・・
今、世界の動きは、日本の動きと逆の方向に動いているのに、それを知らされず、またそれを信じないのが、日本人の悪い癖の様だが・・・
それは単に「騙されている」というのではなく、まさに『人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない。』なのであり、彼らの目にはそう映っているということだと思う。
(資)文化財復元センター おおくま
私は最近、自分の考え方を表に出すことにした。
その結果・・・
仕事にマイナスであることは百も承知だが、しかし、自分の損得より、「社会の益」を優先したい。
早い話が、最近やたらとネットで戦時中の日本軍の行動を美化したり、韓国や中国、そしてアメリカを敵対させるように「煽る」情報が氾濫している。
別にそれが事実であれば問題ないのだが、かならず「裏」には意図が隠されていて、それは日本の憲法をアメリカから押し付けられたものだとか、あるいは中国が日本に攻めてこようとしているとか、また韓国が事実を捻じ曲げているとか、早い話が「日本に都合のいい」話を、あたかも真実だと言わんがために、随分と事実を捻じ曲げている。
この行為は同じ日本人として、とても私は恥ずかしい・・・
私は左翼でも共産主義者でもなければ、「日本」と言う国を愛しているし、日本の文化を誇りに思う。
だからこそ・・・「画像による文化財復元」と言う、始めて16年が過ぎたが、未だに世界中で私一人しかできない仕事をしている。
ただ、この仕事をするに当たり、10年以上昔にあるチャネラーから「捻じ曲げられた歴史を正せ」と言われたことがある。
当時私は、「たかがデジタル画像で、薄れた画像を復元するだけなのに・・・」と、大げさなことを言うものだと受け止めていた。
しかし、時が経つにつれて、彼女の言っていたことの意味が理解できるようになった。
つまり古事記や日本書紀は、天皇家が自分の正当性を主張するために作ったものだということは理解できた。
しかしながら・・・
どうも歴史を捻じ曲げているのは、それだけにとどまらないことが徐々に解ってきた。
それが日本における「天皇制」であるようだが・・・
私は決して天皇と言う存在に個人的に恨みを持たない。
しかしながら、「嘘」を嫌うし、「歴史」を自分の都合のいいように捻じ曲げることに、とても反発を覚える。
それは「正義感」と言うものではなく、人としての「良心」が、それを許さない・・・
だからこそ、最近の改憲のために、戦前の日本の復活を望む輩が、事実に反する「洗脳」「プロパガンバ」には黙っておけない。
だからこそ、私は彼らにとっては「知られては困る」「不都合」な情報を、意識してアップするように心がけている。
それは、私の言っていることを信じろと言うのではなく、情報は片方の話しだけでは「客観的」に判断できない。
だからこそ・・・
彼らの出す情報と「逆」の立場として、「情報」を提供しているにすぎないと思っている。
つまり、そのどちらが正しいかは、他人の話しを「鵜呑み」にすることなく、自分の頭で「考え」そして、自分の「価値観」で判断してほしいと私は願う。
その為には、どうしても「相対する情報」を必要とする。
だからこそ、私は彼らと逆の「価値観」で情報を提供する。
判断するのはあくまでも「日本国民」とか「愛国心」とか「国防」「国益」などと言う、訳の解らない「抽象的」な言葉で、人々を集団の一員として駆り立てるものではなく、「日本国民」と言う狭いくくりの前に「人類の一員」と言う意識を持ち、あくまでも「一個人」いいかえれば「独立個人」と言う立場で、「自分の選ぶべき道」を決めてほしいと、私は切に望む。
(資)文化財復元センター おおくま
最近また暇つぶしに配給動画を見ている。
別に暇つぶししたいわけではないが、また「じっと待て・・・」と言われている様子。
そこでdビデオはほとんど見たので、Huluに会費を払いまた見始めた。
その中で1970年の邦画で「故郷」というのを見た。
瀬戸内の小島で石船と呼ばれる、石を運搬する小舟で生計を立てる夫婦の物語だが、女房役に倍賞千恵子、旦那役は顔は知っているが名前は知らない・・・
そして脇役に渥美清も出ていたのだが、石船を廃業し、島を出る夫婦を見送る場面が最後にあるのだが、島に残る渥美清が見送りの島の人々に「紙テープ」を配る。
それを夫婦に握らせ、小舟は夫婦を載せ、島を離れる・・・・
よく大型船で紙テープで別れを惜しむ姿が映画であるが、それとは一味違い、本当の「情」というものをそこには感じた。
現在では紙テープは環境によくないとされ、見ることのない風景だが、これもまた「目に見える世界」イコール「現実世界」と思っている人々のいうことで、実は「物質」など存在せず、究極は「波動」だと言われる。
同じく人の「おもい」も波動だと言われる。
だけど人はそれを目で見ることができないから「情」など存在しないと思う。
でも悲しいかな、物質は朽ち果てても、そこに込められて「人の思い」は永遠に朽ちることが無い。
それが文化財の本当の価値であり、また別れを惜しむ「おもい」も実は紙テープなど朽ちて亡くなったところで、決して消えることなく「永遠」に存在するものだけど、生憎それも人間には理解できないものと思われる。