【mixi】
綾はミクシィと言うSNSを知っているかな??
今は衰退の一途をたどっているんだけど、昔はかなりメンバーが多かったんだけど・・・
入会するには、ミクシィのメンバーの推薦が必要で、写真仲間に推薦してもらってやっと入ったんだけど・・・・
そこに「日記」として、自分の考えていることを綴っていたんだけど、その中に「最初の彼女の話」以外に次に付き合った彼女の話や、また次の彼女の話などを綴っていたわけ・・・
別に私小説とか、自慢話としてではなく、僕がいつも言うように「他人の話」も「受け取り方」で「毒にも薬にもなる」と言うことで・・・・
で、手元にはあの頃書いた文章の控えが無かったんで、昨日ミクシィの日記からいっぱいコピーしたんだけど、数を見ると150くらいあった・・・
全てはコピーしなかったけど、約100ほどこちらにコピーしたんだけど・・・・
今も言っているようなことは、当時「2006年」から「2008年」の間だけど、今以上に「鋭く」そして「エネルギッシュ」に書いているんよね!!
で、もともと綾とのやり取りとして書いているこの文章も、ある朝「フト・・・」「そうだ、うちのブログにも載せよう」と浮かんだんだけど、これって僕の「顕在意識」で僕が考えたことではなく、「潜在意識」から降りてきたもんだよな・・・・
せっかく「人生の叡智」を詰め込んだ文章を、一人のためだけではなく、「一人でも多くの人人々」のためになれば・・・・
と言うことなんだけど、今までの3次元意識の人々では、理解できなかったと見えて、コメントも返らなかったけど、これから5次元意識に上昇すれば、理解できる人々も出てくるはず・・・・
それに先駆けて、潜在意識から綾とその他大勢のために、纏めることを指示されたんだと思う。
で、ミクシィの話だけど、当時書いていた日記の記事に、数人の人がコメントを残したりして、やり取りをしていたんよね・・・・
そういうところは、今の僕のブログより、言っていることを理解している人がいたということだよね・・・
で、そのミクシィでの日記とコメントを、一緒にコピーしたから、それも含めて綾とその他大勢の「覚醒」の助けになればと思い、主なものを拾って載せるね!!
くまさん
- 【恩師のはなし】
- 2006年05月27日09:25
これはこの前書いた「恩師の話」なんだけど・・・
この前書ききれなかった部分があるから、長いけどとりあえず読んでみて!!
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僕には人生で影響を受けたヒトが何人かいる。
いい意味でも「反面教師」としても、自分がそこから学ぶ気が有れば、いくらでも学べる。僕に一番影響を与えたヒト、そしてその人との出会いが無ければ、間違いなく今の自分はいないと思う。
僕は高卒である。
しかも、アホの集まる職業高校の卒業である。
だけど・・・
その高校の美術部は、僕が在籍していた頃、大阪府下の百何十校という高校の中で、ベストテンには入っていた。
元々絵を描くのが好きで、アホだから普通校にはいけないし、そこに「デザインコース」と言うのが新設されて、そこへ入った。
すぐに美術部に入ったんだけど、動機は不純だったと思うよ・・・
早い話が、例えば花瓶に入ったバラの花なんかきれいに描けたら、女の子にもてるだろうなぁ・・・っう程度だったと思ったりする。で、最初はそんな動機だけど、僕は根が真面目で・・・・・イャホンマ
毎日、クラブに行っていたわけ・・・
同期に同じ中学をでて入った友達がいて、実は彼のほうが絵は旨かった「はず」。
ところが余り顔を出さない・・・
で、2年生になって、真面目がとりえの僕は部長になった。
実は当時、夏休みに大阪府下の百数十校が集まって、天王寺美術館で「高校展」と言うのをやっていた。
そこでは優秀な高校ほど、作品を展示する壁面の割り当てが多いわけ・・・
それが僕の時代にベストテンに入っていた。で、僕は真面目なんだけど、顧問の先生は余りクラブに顔を出さない・・・
美術の先生で、当時でも小柄で男勝りで、事業中騒ぐ男子生徒に「ばかもーーーーん、でていけぇ・・・」と怒鳴るくらいの先生なんだけど、ほとんどクラブには顔を出していなかったわけ。
で、僕は絵を描いたから見てくださいと、職員室に呼びに行くと来てくれる。で、先生は僕の作品を見て・・・
僕の製作意図とは、まったく関係ないところを褒めてくれたりする。その姿を見ていると・・・
「なんや、この先生、何にもわかっていない」と思ったわけ・・・・
作品なんて、自分の「思い入れ」をいっぱい詰め込むのが、当然だと思っていたわけ・・
そして、それは「見ているヒトに伝わるもの」だと思っていたわけ、わけぇもんで・・・・
それを、この先生はなんにも解かっていないと思ったわけよね。その姿を見て「アカン・・・」「こんな先生をあてにしていたら、高校展でいい成績が取れない」「しゃーないから、部長の僕が頑張るか!!」と発起したわけ・・・
で、僕は部員を引っ張ったわけ・・・
で、夏休みも終わり、高校展では、ここ数年先輩の努力もあり、成績が上がって壁面数が増えていた。僕はその年に賞を貰ったし、クラブとしても評価された。で、卒業して数年たったある日「フト」気がついたことがあるわけ・・・
それはその顧問の先生のこと。
ひょっとしたら・・・と思ったんだけど、当時先生がクラブに余り顔を出さなかったのは「自主性」を育てる為・・・
作品を見て、まるで違うことを言ったのは・・・実は「作品なんて、見るヒトによって見え方が違うんですよ」と暗に教えてくれたのでは?
と、気がついた。
高校生の頭では考えられないことだけど、歳とともに、「一言」の重みが違ってくる。もう一つ先生から当時言われた言葉で「謎の一言」がある。
「絵なんて・・・描かなくっても旨くなりますよ・・・・」
まったく謎であった・・・
だって、当時一生懸命デッサンに励み、いっぱい描くから絵は上達するわけやん??
そう思っていたわけ・・・でもねぇ・・・ホントはちがうんよ、テクニックがいくら上達しても、ヒトには「感動」は与えられないっう事。
作品って、「自己表現」でしょう?
早い話が、表現すべき事故の・・またちごた、「表現すべき自己の質」なんよね、大事なのは・・・
言い換えれば、ヒトの「ナカミ」の問題だと言うこと。
それは何も絵をかかなくったって、色々なものから学べるし、その結果が絵に出るわけ・・・さっきの「絵なんて、見るヒトによって色々代わりますよ」ということも、まさに「人生そのもの」だったわけ・・・
同じ一つのことを取ってみても「受け取り方」が違えば、結果も違う・・・
で、ぼくはそのとき学んだのは、作品は「思い入れを詰め込む」モノじゃないと言うこと。
いくら自分の思いを詰め込んでも、決して相手に伝わるものじゃない・・・じゃ、作品って何なの??と考えると「客観視」だと思ったりする。
自分で作った作品を「第三者の目」で見てみること・・・
すると、思い入れの詰まったものは、見ていてしんどい・・・でも、「いろんな受け取り方」が出来るくらいさらりとしたものほど、見ているヒトは自分なりにイメージを膨らませることが出来る。
逆にその感想を聞いて「なるほど・・・」と自分自身にフィールドバックするわけ、僕は・・・そう言う先生の一言が僕を変えたと思う。
で、その先生と僕が30歳を過ぎてから、仕事の件でお付き合いを再開したことがある。
僕が高校時代でもすでにおばあちゃんだったけど、その当時その先生は大阪の私立短大の理事長をされていた。
もう70歳は過ぎていたと思う・・・
その先生に、僕は言ったわけ・・・
「先生から、昔こんなことを言われました」とさっきの話をしたら・・・その先生、なんと返したと思う??
僕はそれを聞いてさすがだと思った。僕が恩師と仰ぐヒトだと思った。「そんなこと、ありましたっけ・・・」
ただそれだけ・・・
この一言の重みは解かるヒトにしか解からないわけ・・・実はその先生、当時高校では美術を教えて、夜間にその短大で「哲学」を教えていたわけ・・・
そう言う裏地を持ったヒトだから、言えたんだよね・・・けっして「やっと解かりましたか?」ではなく、「それは、貴方の受け取り方なんですよ・・・」と言う言葉が裏にあるわけ・・・
その先生、それから10年くらいかけて、今度は4年制の大学を作り、そこの学長と、短大の理事長をかねている。
とうに80歳をこえて・・・まさに「四十・五十はハナタレ坊主」
くまさん
コメント
- 【ぽりちぃ・・・】
- 2006年05月25日02:34
この文はこの前から話しているようなことだけど・・・
僕にははっきりしたポリシィがある。
それは、「文字によるコミュニケーションの限界」と言うことを知っていること。
ヒトの意思を伝える時、一番確実だとみんなが思っていること、それは「ことば」だと思う。
音楽や美術やそして写真でもそうだけど、はっきりと自分の意志が相手に伝わることは無い。しかし、「ことば」は違うはず・・・
ヒトは、いゃ国民は・・と言うべきか、それぞれ「共通の言語」を持つ。
それにより「コミュニケーション」は成り立っている。はず・・・
だけど、いゃ、「でも・・・」というべきか?果たしてみんな「一つの言葉」に対して「同一のイメージ」を共有できているのだろうか?
実はそれは「ありえない」事である。
僕はよく話すんだけど「常識」という言葉をヒトは好んで使う。
それは、「自分は常識を持ち合わせている」という「前提」の元に、みんな好んで使う。つまり、「自分の考え方」は、「間違っていなく」、そしてそれは「みんな同じ」考えをしている「はず・・・」と言う誤解の元に成り立っている。
だけど、みんなに「共通の常識」なんて、実は世の中には存在しない。
十人十色・・・
百人いれば百通りの常識が存在する。あえて「共通」が有るとしたら、それは「国民性」「生まれ」「育ち」「教育」「環境」「職業」「宗教」等の「共通項」を持ち合わせた間でなら、似たような常識は通用する。
しかしながら、育ちも違えば、教育も違う、ましては宗教が違えば、まるっきり逆の「常識」を持ち合わせていても不思議ではない。「常識外れ」とは、「自分の常識」に当てはめた場合、外れているだけで、相手の常識から見れば、外れていないわけである。
じゃ、どちらが正しいか?というと・・・
実はどちらも正しいわけである。
世の中、何でも
2極に例えられる。
「善と悪」「西と東」「暗と明」・・・
この中には、正と誤として扱われることが多い、つまりどちらか一つが正しいことを強調するために、相対するものとして強調される。だけど、現実は違う・・・
どちらも正しいし、どちらも間違っているし・・・そう言う感覚を、人々は果たして何人持ち合わせているのだろうか?
その際たるものは「ことば」だと思う。
ヒトは自分の意志をことばに託して、相手に伝える。
だけど、ホントに相手の一つのことばに持つ「イメージ」は同じなのだろうか?
実は、一つのことばでも、「受け取り方」でまるっきり逆に取られることは多々ある。
その際たるものは「文字によるコミュニケーション」である。しかし、同じひとつの単語であっても、仮にその一言を「本人の口」から発せられたことばであれば、そこにはまた別の情報が加算される。
つまり「感情」がそのことばに加算されることにより、「文字」よりはまだ「本人の意思」の伝達の可能性は高くなる。まして、顔を合わせて、話をすれば・・・
さらに「表情」と言う情報が加算されて、「より」本人の意思は伝えられやすくなる。で、話を戻すと、仮に「文字」によるコミュニケーション一つをとっても、「1対1」でのやり取りであれば、相手の性格や受け取り方を考慮して話が出来る。
だけど、いったら悪いが「日記」というか、ブログの書き込みは・・・
自分が一方的に発しているわけで、受け取り手のことを果たしてどこまで考慮できているのだろう??僕はそこに疑問を感じる・・・
だから、僕はヒトのそう言う「不特定多数」を相手にした書き込みを読みたいとも思わない。
特に覗き見の趣味も無いし・・・・だから、僕は好んで日記を書きたいとは思わない。
あしからず・・・・
くまさん
コメント
- SORO2006年05月25日 04:41
- 僕は、くまさんの文章が大好きだ。強いていえば「養老タケシ」と、なにか共通するものが有る。読んでも理解できないよ。でも書くから5割位は分かってよね。的な多少の諦めを持っている。文章は読み手により、逆の理解さえあるのだ。
今回、おそらく「別れた妻に対するSOROの鈍感性に失望して文章を整理したのではないか?」と僕は推察する。
差しさわりの無い感想が常識と思うが、分からない人間が勝ってに創造して、その後を考えてみる事は許されている範囲内と考えている。
でも、真剣に書いた原作者が、あまりにもかけ離れた、寸評を掲載したら「頭にくる」事も理解できる。
僕の寸評が不愉快でしたら、お許しください。
- くまさん2006年05月25日 10:55
- SOROさん
僕は別に貴方のこととは関係なく、もうこう言うネットの世界に20年以上います。
だけど、未だに馴染めない・・・パソコン通信の、ニフティサーブの「写真フォーラム」のサブシスを、10年ほどやったことがあります。
つまり、「写真」という話題で会議室形式で、ワイワイやるわけです。
創世紀に入ったもので、メンバーは100人足らずでした、最初は・・・少ないうちは、いわば「仲間内」というか、結構似たような考えのものが集まるし、何度か文字のやり取りを繰り返し、またオフ会などで顔をあわせれば「気が知れた」間なりますよね。
つまり「一つの文章」に隠された情報を読み取れる間になるわけです。ところが、数年立つと、数千人、数万人とメンバーが増えてきます。
ちょうど、今のインターネットのように、急増します。すると・・・・
確立がたとえ同じであったとしても、100人のうちの例えば1人、違った考えのヒトが入ったとします。
俗に言えば「常識が違うヒト」ということになるでしょうね?それが、千人、万人とメンバーが増えれば、10人、100人と異質なヒトの数は増えます。
「フォーラム」はメンバーが増えても、発言するヒトはさほど増えないわけです。すると・・・
たとえ1%の異質な考えのヒトであっても、発言するヒトの人数に置き換えると、パーセンテージは上がります。
すると、「侃々諤々」と会議室内で議論が沸騰します。
勿論それはいいことなのですが・・・ヒトは必ずしも「言葉」に対して「共通イメージ」を持たないわけです。
すると、「発言者の意図」と「違った受け取り方」をするヒトが増えてきます。
例えばある人の意見に対して「反論」がされます。
当然反論したヒトは、元の意見と「正反対」だと思って意見を述べています。ところが、それを「第三者」が、ボード上で読むと、実は「おんなじじゃないの?」と思えることが多々あります。
でも、言った本人は「違う」と、思っているわけです。これがエスカレートすると「バト」るんですね・・・・
そう言う、文字によるコミュニケーションの限界を自覚できれば、ある程度自分でも抑制できます。
ところが、実は自覚できていないヒトのほうが、圧倒的に多い。
なんども、僕の意見に「噛み付く」ヒトが居ました。
僕の意見とその人の意見は、実は「似たり寄ったり」なんだけど、相手にはそれが解からないらしく、何度も食って掛かられて、胃が痛くなることが有りました。大事なことは「客観視」だと思います。
世の中にはいろんな考えのヒトがいます。
そして、誰も自分は間違っているとは思っていないわけです。一つの「事実」を取ってみても、「自分の立場」で見れば、自分の考え方は間違っていない。
だけど、立場を変えて・・・
「相手の立場」で同じモノを見たとします。
すると・・・
実は違って見えてくるんですよ・・・夫婦の間はまさにそれなんです。
離婚の原因は、ほとんどのヒトは「相手の浮気」「相手の暴力」「相手の借金」「相手の価値観」等が原因だと思っています。
自分は被害者だという意識が非常に強い。
だから、自分は悪くないんだから、相手さえ「いいヒト」にめぐり合えれば、自分は今度は幸せになれると思ってしまう。
そして、出会い系でそう言う相手を探す。勿論、僕もその一人でした・・・
にゃるほど・・・・と思えますよね?
ところが、逆にその別れた相手は?というと・・・・
自分が悪かった・・・許してくれ・・・・と思っているでしょうか?
違いますよ!! 相手には相手の「言い分」があったりします。
少なくても、自分が一方的に悪かったとは思っていないでしょう・・・・物事は必ず「原因」が有って「結果」が有ります。
自分にとって「相手が悪い」と言うのは「結果」に過ぎないわけです。
だとすれば、「原因」はなにだったのか??一番大事なのはここなんですよ・・・・
実はその原因の「少なくても一端は自分には無かったか?」ということをもう一度考えてみたほうがいいと僕は思います。例えば「浮気」を取ってみても、相手が一人で、いゃ勝手に始めたものなのか?
逆に相手は「言い分」が合ったりします。
それに耳を傾けて、自分に原因があれば反省し、直さないと、「自分は悪くない」と考えていたとすれば、また「同じ過ち」を犯すことになります。2極化として、善悪とか正誤とか、「相対する」モノとしてではなく、オトコとオンナは「凸と凹」「+と-」「阿と吽」のように相反するモノではなく、実は「一対」だと思います。
同じモノが二つじゃ、「一対」とは言いませんよね??
違うもの同士だから「一対」なんですよ・・・・相手の自分と違う部分は「認め合う」必要が有ると思います。
これはそう・・・夫婦に限らず、コミュニケーションの基本でしょうね・・・
くまさん
- SORO2006年05月25日 12:46
- 拝読して感服しました。おっしゃる通りで、夫婦関係においても一寸一分その通りです。(これは心から)・・・そうすると、僕とくまさんの意見は同一で議論の対象にはなりませんね。それは、それは嬉しかったです。僕がくまさんを怒らせた訳ではなかったのですね。嬉しいです。
また、人間関係のあり方を明確に再確認する事が出来ましたのは感謝です。
これからも、不徳な私ですが、色々と教えてください。
くまさんへ SOROより
- 【ナカミってなんなんだろう・・・・】
- 2006年06月01日10:48
この話も中身が濃いよぉ・・・・
しっかしぃ・・・いつも思うんだけど、文章がうまいよね・・・いゃホンマ
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
以前に恩師の話で「絵なんか描かなくっても旨くなりますよ」といわれた話。
ナカミが成長すれば・・・・なんてかっこいいことを言ったんだけど、だけどどうなんだろう?
じゃ、「ナカミ」って、一体なに??実は僕は長年写真を趣味とシゴトとしながらも、一度も「写真教育」を受けたこともなければ、弟子に就いた事もない。
まったくの「独学」である。元々書いた様に「絵を描いて」いた訳だけど、実は美大を目指したものの、貧乏だから私立には行けない・・・
どうせなら、東京芸大か京都美大にでもと、デッサンに励んだけど、やはり学科がねぇ・・・馬鹿だもんなぁ・・・で、結局諦めて就職したんだけど、でもやはり絵は止められず、夕方デッサンを習っていた教室に通ってた。
でもねぇ・・・
こんな性格だから、「理屈」っうか「感覚」はどんどん成長するわけ・・・
だけど、手がついてこなくなるわけよ・・・・で、その頃・・・・
高校時代に友達が写真部に入っていて、それを見ていたわけだけど、写真ってデッサン力なんて要らないやん??
「押せば写る」わけよ、画像としては・・・・
実は就職を考えたときに、写真学校でも行ってカメラマンになりたかったんだけど、やはり学費もカメラを買う金も無いから諦めた。で、就職して自分で稼ぐようになると、その夢がまた目を覚ました。
「そうだ、写真なら・・・・」と思ったわけ・・・俗にこれを「隣の芝生は蒼い」と言う。
たまたま、就職したところが設計事務所で、現場写真を出しに行く「写真屋のおっちゃん」が話し好きのヒトだったから、その人に疑問に思うことは教えてもらった。
ただ、僕のやり方は、最初から答をヒトに教えてもらうのではなく、まず「自分で考える」それでも解からない場合は「自分で調べる」そして「自分でやってみる」つまり、「試行錯誤」が一番大事だと思う。
それでもどうしても解からない場合、初めて「ヒトに聞く」。だから、僕にとっての答と他のヒトが出した答は、違っていて当たり前だと思う。
そうやって、僕は「自分が納得」出来るまで追求する訳なんだけど、実は写真を始めたときに、自分に対して一つ課題を与えた。
「1年以内に賞金を稼ぐ」と言う。
当時はアマチュアコンテストが盛んで、賞金も少しあった。
僕は半年で「トッパン・カレンダーコンテスト」に佳作が2点入り、賞金を得た。それから、結構最初の頃はコンテストを色々狙った。
お受験もそうだけど、コンテストだって「傾向と対策」が必要。
最高5万円貰ったこともある。そんなアマチュア時代を経験して、転職した「町の写真館」に・・・
それから僕は色々渡り歩いた。何の世界も同じかもしれないけど、「専門化」が進めば進むほど、そのジャンルは詳しいけど、隣のジャンルは素人と同じと言うヒトが増える。
元々、写真を撮るのが好きでみんなプロになるんだけど、でもねぇ・・・・
大半のヒトはそこで「初心」を忘れる。プロの世界っうても、みんなが考えるほど「好きなこと」で飯を食っているわけではなく、好きなことをする為に得た技術を、相手が求める画像を作るために切り売りしているわけ・・・
つまり「技術」が金になる。
で、例えば同じ職場に長年いれば、当然そこでは「ベテラン」だけど、逆にそこを辞めると潰しが利かなかったりする。
早い話が、ニンゲンなんて、同じことばかりやっていたり、肩書きが出来ると、固まってしまうわけ。
歳を取ってくると「融通」が利かなくなったり、新しいことを覚えられなくなるヒトが多い。
そんなヒトを雇うより、まだ若いヒトを入れて教えたほうが安くつく。
だから20代後半や30代になると、ベテランでも再就職できなくなる。
だから「フリーカメラマン」が増える。あぁ、「初心を忘れる」とは、シゴトとしての写真の世界は、結構労働条件が過酷なんよ・・・
9時10時は当たり前の世界だったりして、結局「休みの日くらいはゆっくりしたい」と思うようになり、作品を撮らなくなるわけよね、みんな・・・そう言う時代を僕も経験したあと、「モノクロ写真」にのめり込む訳です。
で、こだわりくまらいおんだから、「ゾーンシステム」を始めた。
当時はまだゾーンシステムは日本では普及していなかったから、なおさら「試行錯誤」でデーターを蓄積したりして、数年のめり込んでいた。
その間、僕は「極める」つもりで、ホントに些細なことでも拘ってやってきたけど、結局「切がない」と言うか「理屈道理には行かない」という事に、そろそろ気がついてきた。それまで結構ニフティでは、モノクロの技術的なアドバイスをやっていたら、今度はそう言うモノクロこだわりメンバーが増え出した。
でも、連中は「アンセル・アダムス」は教祖だと思っている。そう言う連中を見ていると、今度は逆に僕は「写真は技術じゃない、ナカミだ」と言い出すようになった。
早い話が「へんこつ」に過ぎないわけである。そのころからかなぁ・・・「写真はナカミ」だと自分でも考えるようになったのは・・・
でも、これといってハッキリした答なんて見つからない・・・
で、僕は学習機能が働くから「時間の無駄」はしたくないと考えているニンゲンなんよ・・・
無駄なことに時間を割きたくないと思う、だってやりたい事が山ほどあって、寄り道は無駄だと思って、一生懸命技術研磨に励んでいた、そんな人生なんよね・・・でもねぇ・・・
最近はちょっと考え方が変わった。良く「女遊びは芸の肥やし」なんて言うでしょう?
僕には理解できないわけ、いゃそれ以上に「むしのいい話」だと思ってしまう。そんなもの、なんで「芸」にプラスになるの??と思うよね・・・
離婚して数年が経ったある日、神社で七五三の撮影待ちでのんびり風の音を聞いていたら、妙に「雅楽」が聴きたくなった。
本来僕は嫌いなの、あの音程が外れたようで、背中にこそばゆくて、あんな間の伸びたようなテンポが・・・・なのに、その時は、やけに聴きたく思った。
帰りに東儀 秀樹のCDを買って帰って何度も聴いた。するとねぇ・・・・
涙が出てきたわけよ・・・何と言うか、あのゆったりとしたテンポが、その時の僕の心に沁みた。
実はその時、当時付き合っていた女性のことで悩んでいたんだけど、その時、僕はその嫌いなはずの雅楽が、やけに「心地いい」と感じていたわけよね・・・で、フトその時気がついた・・・
実はこの「心地よさ」と「ゆったりしたテンポ」って、実は別れた嫁さんと同じなのに・・・
そう、嫁さんは今で言う「癒し系」の典型で、一緒にいて苦痛を感じることがながった「はず」なのに、僕は同時に彼女の「生活テンポ」についていけなかった。
なにをさせてもヒトの2倍はおろか、3倍の時間が掛かる。
僕にはその時間が無駄としか思えなかったわけよね・・・だから、何とかそこを僕は直そうとしていた。
最初は易しく言うけど、学習機能がほとんど働かない女房はまた同じことを繰り返す。
すると、僕は今度はもう少しきつい言い方をするよね・・・
そして次にはもっときつく言うようになる・・・
そのうち、女房は直すんじゃなく「貝」になるわけ・・・
閉ざしてしまうわけ、心を・・・それが原因の一つで別れたんだけど、僕は東儀 秀樹の音楽を聴いて初めて、そんな「嫁さんの気持ち」が解かったような気がした。
ヒトはいいところでも「慣れ」て来ると、それは「当然」だと錯覚するようになるよね・・・
そして、悪いところを直せば「もっとよくなる」と僕は考えていたんだけど、それが逆に「嫁さんの気持ち」を無視していたと言うか、「理解しようとしていなかった」事に気がついた。そう、物事は立場が違うと、まるで違った受け取り方が出来る。
で、僕は嫁さんに悪いことをしていたことに気がついた。
ただ、その気持ちは「次のパートナー」に活かそうと考えた。
ヒトの「ナカミ」って実はそう言うものじゃないかと思う・・・
一見「無駄なような時間」だったり「回り道」だと思えても、それは決してその人にとって「無意味」じゃない・・・
それが、その人を育てる肥やしになることに、最近気がついた。くまさん
コメント
- 【ことば狩り】
- 2006年06月01日17:21
綾は「バカチュンカメラ」なんてな言葉は知らない世代だよね・・・・
随分昔の話である・・・・
巷に「バカチョンカメラ」と言う言葉が、一世を風靡していた。当時パソコン通信の創世期で、「写真フォーラム」は仲間内でワイワイやっていた頃、そろそろ巷で言う「常識の違うヒト」が発言を始めていた。
今では「フイルム付きカメラ」とでも呼ばれているのかなぁ・・・
あのカメラも出来た頃は「使い捨てカメラ」と呼ばれていた。
ところが、今の「もったいない」ブームじゃないが、使い捨ては資源の無駄ということで、再利用が始まって、呼び名まで変わった。
そんな「歴史」がある。さて、「バカチョンカメラ」とはそれ以前のカメラと言うべきか、元々写真とは特殊技術であったんだけど、電子技術が発達してくると、「露出」をカメラが自動的に決められる時代が来た。
大変なんよ、露出の問題・・・
これを突き詰めると「ゾーンシステム」になるわけよ。それを、さっきの「ナカミ」の話で出てきた「押せば写る」時代が来るわけ・・・・
するっていと、素人でも旅行にカメラを持参する。
つまり写真の知識が無くても、写真が「撮れる」様になった。
そんなカメラの総称が「バカチョンカメラ」と呼ばれた時代があった。
どんな意味だろう??僕は当時、馬鹿でも誰でも「チョン!!」とシャッターを押せば、写真が撮れるという意味だと解釈していた。
いゃ、僕に限らず、世の中の大半のヒトはそう考えていたと思う。だから、ネット上の写真の話題には、よくこの言葉が顔を出していた。
すると・・・・
そう、世の中には違う常識を持ったヒトが一杯いる。
ある時ネット上に「バカチョンとは何事か!!」と言い出すヒトが出てきた。
みんなキョトンとしていると「バカチョンとは差別用語だ」と言う。つまり、歴史をさかのぼると「チョン」とは「朝鮮人」を指し、しかも馬鹿にした呼び名だという。
みんなあっけに取られたけど・・・・
バカチョンとはまさに「馬鹿な朝鮮人」という意味だと言い出す。この話は時が経つと何度もぶり返しを見せた。
なるほど「歴史上」では、確かにそう呼ばれていた時代があるのは事実かもしれない。
だけど・・・・
はたして「バカチョンカメラ」とは、そう意味で使われていたのだろうか??僕は今でも疑問を覚える。
いゃ、違うと思っている。言葉とは、歴史と共に、その意味するものが変わってくるはず・・・
当時はやっていたカメラの「バカチョン」という言葉に、はたして「馬鹿な朝鮮人」というニュアンスを含めて使っていたヒトが何人いただろうか?
まったく違う意味で使われていたと、僕は確信するんだけど、そうやってクレームを入れた人々は違った認識を持っているわけである。
もちろん、人それぞれ・・・・
そう言う考え方をしても間違ってはいない。ただ・・・
当時、少しおかしいと思った事がある。
その人が「踏まれたものの痛みが判るか!!」と、言い出したわけ・・・
にゃるほど・・・・
と、思うよね・・・
すると本人は「踏まれる立場のヒト」だということになる。
その立場のヒトの発言なら、僕も素直に受け止める。だけど、へんこつのくまさんだから「あれつ??」と思ったわけ。
どうも本人は「違う・・・」という。
おかしくないかぁ?
「踏まれた経験が無いものが、踏まれた痛みが解かるか?」
ちょっと待て!!となるわけよ・・・よく「ヒトの痛みが判るようになりました」というヒトが居る。
だけど、ホントに解かるのかな??僕は今あえて「判る」と「解かる」とを使い分けている。
つまり見ていてわかるのは「判る」だよね??
一方「理解」することは「解かる」だよね・・・
この違いは大きいと思う。多分、そういったヒトは、相手を「見て」いて「判る」という判断なんよね・・・
もっと簡単に言うと、「そう思った」とか「想像できる」と言う「域」を出れない。ヒトって結構この手のヒトが多い・・・
それで他人のことを解かった気になっているんだけど、その「判断基準」って一体何なんだろうと思う。
その基準て、実は「自分と言う計り」で他人を計っているに過ぎないわけよね・・・
ヒトにはそれぞれ違ったはかりを持っている。
それを「自分の計り」で計っておきながら、はたしてホントにヒトのことが解かるだろうか??
はなはだ疑問に感じる。痛みと快感は実は紙一重だったりする。
だからSMなんてなモノが存在する。
それを自分の感覚で、他人の感覚を判断して、そして「決め付けて」いいものだろうか??で、話を元に戻すけど、そう言う人って、実は「差別用語」がこの世の中から無くなれば、差別はなくなると思っているように思えた。
「バカチョンという言葉を使うな!!」なのである、結局その人たちが言いたいのは・・・
でもねぇ・・・差別って言葉の問題じゃないやん??
むしろみんなが忘れていたと言うか、ぜんぜんそんな意味で使わなかった言葉を、「語源」を持ち出すことにより「差別意識」を呼び起こした。むしろ、ホントに差別意識を持っているのはどちらだろう??
僕の「文化財の復元」は、実はそこに本来の意味が有ると思う。
この手の差別は歴史上、実在していたわけで、それに対しての認識と言うか、ちゃんとした知識とか教育とかは、きちんとなされるべきだと思う。なのに、行政もこの手の差別から目をそむけると言うか、いゃそう言う事実すら存在しなかったかのように、隠そうとしたり、改ざんしたりしょうとしている。
特に部落問題は根が深い・・・
ある地域の「歴史」から完全にその部分が抹殺されていて、あたかもそんな歴史など無かったと言わんばかりである。おかしいよ・・・「事実」に反するわけ・・・
「文化財」とは「文化」を「形」にしたものなんよ・・・
形そのものに意味があれば、それはもう一度同じ材質で、同じ顔料で、同じように作ればそれで済む。それが、今「研究目的」で行われている「復元」の実態なんだけど、僕は違うと思っているわけ・・・
そう、文化財とは「ナカミ」なんよ、大事なのは・・・
「何故創られたのか?」「何故記されたのか?」なんだと思う、ホントに大事なのは・・
決して形として同じモノを、もう一度作れば済むという問題じゃないはず。文化とはヒトの営みであり、記録である。
それを「正しく伝える」事の大切さをちゃんと判っていないと、行政が逃げ腰になるから同和問題の逆差別が起きたりする。過去として、歴史上存在したことはちゃんと後世に伝えるべきじゃないだろうか?
そのための「復元」なんよ、大事なのは・・・・変に形を変えてごまかそうとするから、逆に歪な差別意識が残ったりしていないかなぁ・・・・
くまさん
コメント
- ぴかそ2006年06月02日 13:54
- 結局 お役所仕事なんでしょうかね・・・
本質を誰も説明できないから、とりあえず形作っておく
上からの命令→資料を揃えて体裁を繕う→場を設けて
とりあえず実績を残す
本質が伝わろうが否か関係ないですって感じかなぁ戦争の意味さえ、世代が変われば受け止め方も違ってくるし
大切なものは、どうなんやろ・・・
広い世間を見渡して自分でちゃんと答えを見出せる人間?
ん~~難しいな~
- さくら2006年06月03日 09:57
- こんにちわ
「ばかちょん」については私は「馬鹿でもチョン(朝鮮人)」でも撮れると教えてもらったことがあります。その頃はチョンという言葉を昔朝鮮人を馬鹿にして作った言葉とは知らずにいて(無知でごめんなさい)
馬鹿でも朝鮮人のような外国人=日本語が分からないひとでも説明なしに使用することが出来るカメラなんだと一人で納得しておりました。
言葉難しいですね^^;
- くまさん2006年06月03日 21:10
- さくらさん、こんばんわ
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「ばかちょん」については私は「馬鹿でもチョン(朝鮮人)」でも撮れると教えてもらったことがあります。
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それは、具体的に質問したと言うことですか?ぼくなんか、ヒトに聞くと言うより、ちょうど20代後半くらいから「自動露出」という機能がそろそろ出始めて・・
元々は一眼レフだったと思うのですが、リコーだったかヤシカだったか・・
コンパクトカメラにそう言う機能がつき出して、一気に普及したんだと思います。
気がついたら「バカチョン」と言う言葉が一般化していたし・・・
どうなんでしょうね?僕自身、朝鮮のヒトに対して差別意識はありませんでした。
それどころか20代後半には、舞台写真をライフワークとして撮っていて、「舞踏」や「舞踊」特に「民族舞踊」を撮っていたし、その中でも「朝鮮舞踊」の先生との付き合いもあったし・・・
毎晩鶴橋の屋台をはしごしていたし・・・ただ、高校時代に「岡林信康」の「チューリップのアップリケ」という唄が、部落問題を謳ったものだと聞いた覚えはありました。
まぁ、どっちにしろ「単語」が差別しているのではなく、「ヒトの意識」がそうしていると思いますが・・
くまさん
- さくら2006年06月03日 23:23
- こんばんわ^^
そうですね、何気なく聞いてみましたw
食事をしていて話の話題みたいな感じだったと思います。
私は実際戦争を身をもって体験しているわけでないせいか朝鮮人については特に意識をしてませんね。
ただやはりもう亡くなってしまいましたがおばぁちゃんぐらいになると独自の見下す雰囲気は言葉の端に漂ってましたね。
でもおばぁちゃんたちも戦争という異様な状態の中で教育によって植え付けられた意識なので彼女を責めようとかは思いませんでした。最近といえば少し前になりますがちびくろさんぼ問題がありましたよね。 どうお思いですか?
テレビではいじめにちかい番組が人気なのになぜそれを人権が何たらというかたが抗議しないか不思議です。
どちらにしろやはり個人が生きてきた中での観念がいろいろなすれ違いを作っていそうですね