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結局・・・

何なんだろうね・・・

なんであんな書き込みにここまでアクセスがあるのだろう?

2016年5月24日 (火)

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訪問者あたりのビュー数: 1.14

で、あの書き込みは本日、いゃ昨日「2899」回ビューされている。

それでもまだ12時を過ぎてもアクセスは続いている。

今朝の時点ではたぶん2000は行きそうに思ったが、まさか3000を超えるとは・・・・

われ思うに、伊勢サミットで各国首脳が来て、小浜が、いゃオバマが広島に行くけど、結局は謝罪はしないらしい・・・

だけど・・・facebookにリンクを貼られているいくつもの「原爆投下」に関する記事は「客観的事実」としか思えない。

我々日本人的感覚からいえば、明らかに犯罪であり、償うか、購うか、最低限「謝る」べきことだと思うのに、彼に限らず白人には罪の意識が無いらしい・・・

と、書いて気が付いたのだが・・・

彼は白人じゃない・・・

だから・・・

広島に足を向けるのだろうが、少なくても核廃絶を唱えてノーベル賞をもらったものが、過去の核の犯罪を認めることなく、これから先、何故核廃絶しなければならないのか?

つじつまが合わない気がする。

その件でやはり我々日本人は怒っているんだと思う。

だからこそ・・・

核を落としたトルーマンを投げ飛ばした「林田民子」に、自分の気持ちを重ねているのではないだろうか?

(資)文化財復元センター おおくま

テクニックって・・・・

最近facebookでタレントの顔を、鉛筆で写真と見間違えるほどのリアルに描かれたものや、油彩画などを見かける。

確かに凄いと思う。

私自身それを目指してデッサンに励んだり、グザヴィエ・ド・ラングレ著の油彩画の技法」と言う分厚い本を読み、古典技術にのめり込んだことがある。

しかしながら、自分のデッサン力が付いて行かず、結局は諦めて、「写真」に転向した。

以前にも書いたが、写真はシャッターを押せば、自分の感覚を活かした作品が創れる。

  

  

そう安易に考えての転向だったが、現実はそれほど甘くはなかった。

感性」を形にするにはやはり「技術」が必要であった。

ただ私は現在の復元の技術もそうだが、写真技術に関しても、専門教育は受けていないし、またどこかのカメラマンに弟子入りしたことも無く、すべては「試行錯誤」で身に付けた。

  

こだわり性の私は、特に「モノクロ写真」にのめり込み、「ゾーンシステム」の研究を随分とした時期がある。

ゾーンシステムとは「アンセル・アダムス」と言う写真家が、自然界に存在する光の明暗を、写真で再現するための「現像法」なのだが、実際はその自然の諧調をストレートプリントで焼いても、決して感動的な写真にはならず、その技術とプリントテクニックを合わせて、初めて美しいプリントが創れる。

これにのめり込んでいた一時期、私はこの技術を「活かせる」様な写真を撮っていた。

と、言うと、聞こえがいいが・・・

 

  

実は「ゾーンシステム」を活かせる「作例」のような写真をずっと撮っていた。

本来、「作品」とは「自己表現」であるのに、その「自己」を磨くことを忘れ、「技術」に振り回されていたわけである。

また少し話は変わるが、当時若い私は国産のカメラを買うのがやっとだったが、金のある医者や弁護士で「写真」が趣味の人は多い。

仕事場の近くの医者に行った時、モノクロ写真パネルが飾ってあり、私も好きだからその医者に話しかけた。

その医者は「ライカ」を使っているらしく、彼はその自分の作品を片手に「このレンズの味が・・・」と自慢し始めた。

彼に限らず、写真を趣味とする人の中には、舶来カメラの「レンズの味」を自慢する人が少なからず居る。

私はそれは本末転倒だと思うのだが、彼らの趣味は写真ではなく「カメラ」なのである。

  

これは先ほどの「ゾーンシステムの作例」のような写真を撮っていた私と共通して、「レンズの味の作例」みたいな写真を撮っている連中である。

時代は遡り、高校時代に私は美術クラブの部長をしていた。

顧問の先生は当時でも小柄で、男まさりのおばあちゃん先生だった。

  

その先生に当時言われた言葉がある。

「絵なんてね・・・」「描かなくったって、旨くなりますよ!!」

私はこの時、美大をめざしデッサンに励んでいたが、この言葉を聞いた時、「目が点」になった。

絵は技術が無いと、自分の思っていることを「」にできない。

だから一生懸命練習しているのに、なんで描かなくてうまくなるの?と、この言葉を理解できなかった。

  

もう一つ、この先生はほとんどクラブに顔を出さず、部長の私はあまり熱心な先生ではないと思いつつも、作品を見てもらうために、職員室に顧問を呼びに行った。

先生は来てくれて、作品を見てくれた・・・

で…先生は私がその「作品に込めた思い」とはまるで違うところを褒め、全く違う感想を述べた。

その時、私は「この先生…何にも解っていない・・・」と思ってしまった。

それから数年して、私は美大を諦め、設計事務所で働いていた。

  

ある時、「フト・・・」気が付いたことがある。

そう、その先生の事である。

先生がクラブに顔を出さなかったのは、「自主性」を育てるため・・・

そして、作者と違う感想を言ったのは・・・

「絵なんてねェ・・・見方が一つじゃないんですよ!!」と言うことだった。

つまり見る人の数だけ、見方がある。

  

最後に
「絵なんてね・・・」「描かなくったって、旨くなりますよ!!」

とは・・・

つまり、大事なのは技術じゃなく、「表現すべきナカミ」つまり「己」を磨けということ。

これはまさに「人生そのもの」で、一つの出来事でも、十人十色で、受け取り方が違う。

また「人生から何を学ぶか?」が、実はそれが「表現すべきナカミ」となること。

そんなことを、私に「」に教えてくれた先生は、私が40歳くらいの時、「常磐会短大」の理事長をされていて、その先生と仕事を一緒にさせてもらった時、私はその話を先生にした。

すると・・・

その先生は「そんな事、ありましたっけ・・・」ととぼけられた。

私はその一言を聞き「わたしが師と仰ぐだけの人」だと思った。

つまり、すべては「受け取り方」の問題ですよ・・・・

新くまらいおん-S(資)文化財復元センター おおくま

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