2月の末に、今まで見ていて配信の映画サイトから、別のサイトに変えた。
当然1か月の無料期間をフルに活用するためだが、今度のサイトは邦画が少ないが、洋画は見ていない作品も多い。
その中で2013年の邦画であるが、この作品、ご存知の方も多いと思うが、青森の「無農薬リンゴ」の栽培農家の話である。
とは言っても、私自身は巷の流行には全く興味が無い上に、グルメ志向も無く、その物語の詳細は知らなかった。
ましては私はリンゴのように皮を剥く果物が、食べるのがめんどくさいと言う、不精なところもある。
リンゴ農家に婿入りした主人公が、女房の農薬アレルギーを知り、低農薬のリンゴ栽培に乗り出した。
研究熱心の彼は、他低農薬栽培には成功するのだが・・・
次に「無農薬」栽培を実験的に乗り出した。
元々婿入り先の父親は、リンゴ畑の1/4での実験を許すのだが、試行錯誤をしていろいろ試すのだが、結局すべての畑で無農薬栽培に乗り出した。
とは言っても、その畑の持ち主は、嫁さんの父親なのだが、彼の理解があり全面的に無農薬化に踏み込むことができたのだが・・・
それから11年目にして、やっと無農薬のリンゴは実を付けた。
その間、周りの白い目や子供たちも最低の貧乏暮しを体験し、それでも家族の理解があってやっと無農薬リンゴは成功した。
それにしても、数年くらいは何とか持ちこたえられたとしても、11年間はとても長い。
ほんとうに家族の理解があってこそ、諦めずに成し遂げられたと思う。
その間、リンゴは無収入のまま・・・
私もこの道、苦節16年だが、さりとてこの主人公ほどの苦労を味わってはいないと思う。
さすがに何度も涙がこみ上げてきた。
先日、「人生で学ぶべきもの・こころのチキンスープ その2」の中で、こんな話を紹介した。
パパは何でも知っている。
4歳・・・僕のパパは、なんでもできるんだぞ。
5歳・・・僕のパパは、何でも知っているんだぞ。
6歳・・・僕のパパは、君のパパより頭がいいんだぞ。
8歳・・・僕のパパにも、知らないことがあるんだね。
10歳・・パパが育ったころと今とは、だいぶ違うんだよな。
12歳・・あぁ、しょうがないさ。 知らなくても無理ないよ。 だってパパは歳だもの。 自分が子供だった頃の事なんて覚えていないのさ。
14歳・・パパの言うことなんか、気にしなくてもいいんだよ。 古いんだから。
21歳・・えっ、僕の父さん?もうどうしょうもなく時代遅れさ。
25歳・・父さんにも、少しはわかっているみたいさ。 でも、そんなの当たり前だよね。 あれだけ長生きしているんだもの。
30歳・・父さんの考えも、きいたほうがいいんじゃないかな。 何と言っても、経験があるからね。
35歳・・父さんに聞くまで、僕は何もしないからね。
40歳・・父さんならこんな時どうしただろう? すごく知識も経験もほうふだったものな。
50歳・・もし父さんを生き返らせることができるなら、何も惜しまない。 そうすれば父さんに相談できるんだがな。 父さんがあれほど賢い人だったなんて、むかしはまるで気が付かなかった。 もっといろんなことをおしえてもらえたのに。
アン・ランダース
つまり、一つの事柄でも、人は歳とともに人生から学び、年相応に受け取り方が変わると言う話なのだが・・・
この作品は2003年の作品だが、まさにそれを地でいくお話である。
よく話好きの男が、話を誇張して、尾ひれを付けて、面白おかしく語って聞かせる。
そんな男は世界中にどこにもいるものだが、この主人公は息子なのだと思うが、子供のころに父親が寝る前にいろんな話を聞かせてくれた。
その話、まさに子供のころには面白かったが、やがて主人公は20代・30代の大人になる。
その主人公の結婚式のスピーチにまで、父親はそんな子供のころに聞かされた「荒唐無稽」の話をし、出席者からは喜ばれたが、当の花婿の自分より目立ってしまう。
息子は結婚式の後、父親に「そんな作り話、もう二度と聞きたくない」といい、3年間父親と疎遠になる。
ある時、母親から父親が病床に伏したと連絡があり、身重の奥さんと駆けつける。
その病床のベッドの中でも、相変わらず父親はそんな荒唐無稽の話を、主人公の奥さんに話してきかす。
でも、奥さんはそんな父親の温かい人柄に惹かれ、楽しそうに父親の話を聞く。
母親も主人公の奥さんも、そんな父親のファンだが、当の主人公は、「作り話」としか受け取れない。
しかし、父親の付添いの間に、周りの人の話や、父親の書斎に残る記録から、あながちその話が作り話ではないことを知る。
主人公は少し父親を見る目が変わり始めるのだが、荒唐無稽な話も、実は実話に尾ひれがつき、面白おかしく父親が演出していたことに気付く。
そして、父親の最後が近づいた時、父親が息子に「自分が死ぬ場面」の話を、創って聞かせてくれと、逆に頼む。
息子は話の出だしだけ父親に聞き、その後は自分も父親と同じように、父親の最期を、父親の話で出てきた仲間たちに囲まれ、そして川の中に入り、ビックフィッシュとなって、水に帰っていくと言う物語を聞かせ、父親は息を引き取る。
で、実際に父親の葬儀には、父親が語ってくれた物語の主人公たちが、話よりもスケールは多少は小さいが、実在し最後の見送りに駆け付けた。
まさに、上の話をそのまま「絵」にした物語なのだが・・・
あれほど、父親の作り話を嫌がっていた主人公の息子は、結局自分が父親となりその息子に、父親のような「荒唐無稽」の話を聞かせる・・・
(資)文化財復元センター おおくま
2001年のアメリカの作品である。
以前に知的障害のある母親が、お腹を痛めたわけでもない養女を、どれだけ愛していたのか?と言う中国の
と、言う作品を紹介した。
この作品も知的障害のある父親が、わが娘をどれだけ愛しているのか?
それを胸が痛いほど感じさせる作品なのだが、7歳の知能しか持たない父親と一緒に育った障害の無い7歳の娘。
娘はそんな父親に、むしろ自分が母親のように優しく接しているのだが、福祉課の職員がその父親には子供を育てる能力が無いと、親権の剥奪の訴えを起こす。
その障害を持つ父親は、優秀な女性弁護士に弁護を頼みに行くが・・・
女性弁護士は弁護料が払えそうもないので、その依頼を断る。
しかし度重なる依頼に、最後は無料で弁護を引き受け、裁判は続く。
もう一歩と言うところで力及ばす、その少女は父親と引き離され、里親のもとに引き取られる。
が、しかし、女性弁護士は再度裁判へ持ち込むが・・・・
その間知的障害があっても、娘を愛してやまない父親の愛情に、里親も最後は折れる・・・
親子の愛が、むしろ知的障害があるために、純粋に注がれ、娘もそんな父親をとても慕う。
「無償の愛」と言う言葉は、キリスト教での一つのテーマだが、これぞまさにその見本であると言える。
古い作品で1962年のハリウッド映画で、モノクロである。
同名の自伝的小説の映画化だと言う。
小説はピョーリッツァー賞を取っているらしく、とても感動的な話である。
時代設定は1930年代のアメリカ南部の町。
グレゴリー・ペック演じる弁護士を父に持つ、二人の子供と友達がどちらかと言うと主人公なのだと思う。
この手の法廷問題を描いた映画はいくつもあるが、それを弁護士の立場ではなく、子供の目線から見た弁護士としての父親の姿。
そして何より、当時の南部がいかに黒人差別意識が強く、法廷の証言から明らかに冤罪と思われる黒人男性に、それでも白人の陪審員は「有罪」を言い渡す。
その裁判を子供の目線で、いかに偏見に満ちているかを訴えたものと思われる。
また、その裁判は終わった後に、隣人で姿を見せない「怪物」だと子供たちが信じていた男は、実は心優しい男だったと言う落ちまでついて、もう一度正義とは何か?を考えさせられた。
1999年~2003年のハリウッド映画であり、ご覧になった方も多いはず。
私は流行モノには興味が無いのだが、第1部だけは、何度か見た覚えはあるが、その後のストーリ展開を知らない。
しかし、この作品、3部を続けて昨夜から今朝の午前中に掛けてみたのだが・・・
とても肩が凝ってしまった。
難しくて肩がこるのではなく、ストーリー展開の速さと、まさに息をつかせぬアクションの連続で、見ていて体に力が入り、リラックスする暇もなく、肩こりが残った。
さて、物語は我々が現実世界だと思っている、この世界は、実はプログラミングされた幻だと言うところから、話は始まる。
この手の話は、この作品に限らず、実は「精神世界」の本を読めは、多くの本で人間の本質とは「魂」で有り、「肉体」はその乗り物だと言う。
そして魂は「輪廻転生」する。
しかし、これを理解できる人は、巷の一握りの人で、我々が目にし、触れ、味わい、匂う、聴くことのできる「物質世界」を現実だと信じてやまない。
まさにこれこそこの作品のテーマとされている事なのだが、そのマトリクスを「人工知能」が創り上げたと言う話だが・・・
そんな人工知能なんて存在しない時代から、すでに我々が「現実」だと思っているこの世界は、まさに「マトリクス」そのものだということになる。
で、面白い話なのだが、私は不思議な体験をイヤと言うほど味わっており、「目に見えない不思議な力」と言う存在を否定できない。
しかし、それが神なのか、仏なのか?と聞かれると・・・
さっぱりわからない。
そこで「神とは何か??」と、ずいぶん以前から「自問自答」していたのだが、数年前にその答えが自分の中に有ることに気が付いた。
その答えは・・・
「宇宙の運行プログラムの様なもの」と言う答えなのだが、どういう意味だろう??
ずいぶんと考えたことがある。
これって、この作品のテーマである我々が現実だと思っているものは、まさに「プログラミング」で創られたもの。
言い換えると、もっともっとスケールをでかく考えると、宇宙の星の運行もすべてプログラミングされて、狂うことなく、ち密に運行されているわけで・・・
そんなプログラミングをできる存在が、まさに「存在」する。
これを我々が知る限りの言葉で、言えば、それはやはり「神」と言う存在しかありえない。
ゆえに私に返された答えは間違っていないことになる。
さてさて、今回このシリーズを見ていて気が付いたのだが、現在映画は「CG」で、どんな現実ではありえない場面でも、リアルに描くことができる。
大都会が一瞬にして破壊される、大地震や大津波・・・
はたまたこの作品でも、排水溝を飛び回る彼らが乗る舟や、タコのごとく長い脚を動かす敵の攻撃機・・・
あたかも本物のように見えるのだが、しかし誰でもそれが「創りモノ」だということが解って見ている。
ところがこの2部に置いて、熾烈を極めるカーチェイスが繰り広げられるのだが・・・
走っている車が壁にぶつかり、宙を舞い横転する。
実写では不可能なシーンなのに、あたかも観客は「自分の目」でそれを見ていると「錯覚」するほど、リアルに、そして質感も超緻密に描かれたものが、宙を舞い、落下し、横転する・・・
そんなシーンをここまで「CG」で再現できることに、驚嘆したのだが・・・
しかし、これって、先ほどの話に戻ると、わざわざCGで描かなくったって、我々が普段目にしている「現実」って、まさにこれと同じで、実際には「存在しない」ものだということと、まさに「劇中劇」で見せられた思いがした。