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最近思うのだが・・・・

最近、朝日新聞がやたらとつるし上げられている。
 
それ自体は、彼等がやったことを考えれば当然だと思う。
 
間違いに気が付けば、プライドを捨てて謝るべきだ。
 
 
ただ・・・・
ここでもう一度、日本国民に考えてもらい事は、エハン・デラヴィ氏が言う「プラス・マイナス・ニュートラル」の精神だと思う。
 
つまり、朝日新聞は確かに記事をねつ造し、日本国民に被害を及ぼした。
その影響は大きいし、それがマスコミの流した情報だから「プラス」に当たるとする。
 
また一部のマスコミや関係者からは、それに対する反論が出た、それが「マイナス」に当たる。
結果として、マイナス側が正しいことが証明され、朝日新聞はつるし上げられた・・・・・
 
そこまでは事実だと思うが、しかしモノの本質はそんなに簡単じゃないのではと私は思う。
 
つまり、国民の意識を朝日新聞に向けている「」が必ず居るという事を、ちゃんと認識しておくべきだと思う。
 
いわゆる「人身御供」として利用している輩が居ることを、知っておくべきだと思う。
 
 
つまり、エハン・デラヴィ氏が言う「ニュートラル」とは、一つの立場の意見を「鵜呑み」にすることではないという事。
 
ニュートラルとは、自分の「立つ位置」を一歩も二歩も下がって、もっと「全体」を見る目が必要だという事。
 
国民の意識を朝日新聞に向けている間に、「得をする輩」が居ることをちゃんと知っておいてほしいと思う。
 
我々は気が付かない間に「操られている」という事を、いつも考えておくべきでは??
 
(資)文化財復元センター  おおくま

「スーフィーの賢者 ルーミー ”その友”に出会う旅」 エハン・デラヴィ著  その2

 003
エハン・デラヴィ氏の著書には、スピリチュアルにはまっている人々への厳しい言葉が多い・・・
 
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何らかの神秘体験をして、スピリチュアリティにすでに通じたかのように思い込んでいる人は、スピリチュアルな物質主義の罠に掛かっていると言えるだろう。
例えば「○○への祈りが叶った」、「願いどおりに○○が起こった」などと言う人は、自分の霊的能力を誰かに認めてもらいたい。
しかし「囚われの無い谷」では「それがどうした?」と、自分の中に言い聞かせるだけである。
 
禅の世界に魅了されて、日本で生活するようになったアブトゥールは、毎朝、欠かさずに座禅を組むことが習慣となり、それから15年ほど続いていた。
当初は、当然何らかの期待を抱いて座禅を組んでいた。
しばらくすると、座っていることが徐々に退屈になったが、次第に、どんな期待も手放して、とにかく座ることに徹した。
スーフィー的にいえば「彼は尻をすり減らした」という事だ。
 
 
過去世リーディングができる、水の味を変えてみせる、精霊と会話できるとか、多種多様な現象がスピリチュアルな物質主義にはある。
このような俗世界の傾向と一線を画すもの、それこそがひたすら諸行無常について説く仏教である。
 
イエスキリストは、まさにスーフィーのマスターであった。「自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、私のために命を失うものは、それを得る(マタイ16・25)」と、イエスは語っている。
 
これは自分の人生ドラマに囚われるなという事だ。
それも、ただ意識するだけではダメであり、わざわざクエストに出なければならないのだ。
私たちは「囚われの無い谷」さえも超えて、さらに旅を貫く決心を固めることへと導かれるのである。
 
今、スピリチュアルにハマっている人は、今のスピリチュアルの世界を後にしたとき、もっと真剣にこの現実世界と向き合う準備が整うだろう。
もうその時は、外的世界によって自分の気持ちを晴らそうとは考えなくなるだろう。
 
ルーミーは、囚われからの解放は、人間が努力して得ようとするものではなく、贈り物として受け取るものであると詠っている。
 
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どうだろう、そこのスピリチュアル系に憧れる貴方??
 
この意味が理解できるであろうか・・・・
 
 
これがエハン・デラヴィ氏の精神性の高さだと私は思う。
 
 
 
少し話は変わるが、よく修験道に励む人は「神秘体験」を求めていると言う。
これは彼の言うところの「スピリチュアルな物質主義」と言えるのだろう
それを求めなくなったところからが、本当のスピリチュアルな道という事だろう。
 
 
何をもって神秘体験と言うのか疑問だが、私など、自分が求めていないにもかかわらず、不思議な出来事のほうかから嫌と言うほどこちらへやってくる。
 
あんなもの、別に求めるものでもないと思うのだが、実際に何らかの力がそこに加わっていることは実感できる。
 
 
 
 
彼はまたマザーテレサの例を出す。
 
彼はルーミーの師であるシャムスのことを、「貧者」と言う。
スーフィーに限らずキリスト教においても、最も悟った人は「貧者」と言われる人々だと言う。
 
このマザーテレサもまさしく「貧者」と言える。
スピリチュアルな貧しさとは、「謙虚さ」なのだと言う。
 
マザーテレサは死の直前まで、自分が良きクリスチャンではないかもしれないと苦しみ、しばしば司祭に自分のために祈ってもらっていたと言う。
 貧しい人々に食べ物を与え、心と肉体の傷を癒すために働く彼女は「貧しさとナッシングネスの谷」の試練をどこかで理解していたのだろうと言う。
 
 
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現代人にとって、この苦しみの境地は歓迎できるものではない。
日常生活とは、海の波のパターンのようであり、我々は思考パターンや行動パターンに執着し、深海に存在する愛に飛び込むことを恐れている。
 
いくらスピリチュアルな体験をしても、それらが真実と言うわけではないということをスーフィーは警告している。
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マザーテレサの死後、彼女の手紙が遺言通り出版された。
その中には極貧の人々を救うことに命をかけた彼女の「孤独感と空しさ」が書き記されていたと言う。
 
 
彼女はまだ若き頃、ミラクルなまでのキリストのビジョンを見て、その存在をリアルに感じたことがあると言う。
 
たぶんこれはハクコック氏の対談に出てくる『異次元』におけるキリスト像なのだろう・・・
 005
私も覚醒夢をよく見るが、その感覚は「スーパーリアリズム」そのものである。
 
ところが
彼女のその後の人生において、キリストと出会うことがなかったと言う。
彼女はキリストが去ったものと意気消沈して、50年以上の人生を過ごしていたらしい。
 
にもかかわらず、彼女は常に愉快な人として人の目に映り、誰にも不満は洩らさなかったと言う。
彼女の謙虚さは深遠であり、主が姿を現さない十字架を嘆きつつも、日々精進を重ね、結果的に主に負けない仕事を成し遂げた。
彼女は長い間、神との分離を経験していたと言う。
 
私はこの話を読みながら、また涙してしまった・・・・
 
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無神論者の多くは、実際に神は存在しないと言う。
そんな彼らに「貧しさとナッシングネスの谷」を理解することは到底難しいだろう。
彼らは、1パーセントのリアリティに執着しながら、神は死んでいると確信している人々だからだ。
 
しかし、実際には神は死んでなんかいない。
 
それにしてもマザーテレサは、その後、何の兆候を得なくても信仰心を失わなかった。
これこそが、本当の信仰と言えるだろう。
 
神からの確信が持てるサインが全くないままに信仰を持ち続けるのは並大抵の事ではない。
日々、包帯を取り替えたり、食事を与えたり、亡くなった人に祈りを捧げること。
 
これをマザーテレサは、生涯を通して黙々とただ実行していた。
彼女こそ、将来、聖人として認められるに値する人物であろう。
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(資)文化財復元センター  おおくま
 
 

「スーフィーの賢者 ルーミー ”その友”に出会う旅」 エハン・デラヴィ著  その3

003
さて、話をアッタールの「鳥の会議」に戻すと、フーポー率いる、神を求めて飛び立った鳥たちは

探求の谷
愛の谷
理解の谷
囚われの無い谷
統一の名に
困惑の谷
貧しさと無の谷

 
を超えると言う厳しい旅の末に、王様の宮殿に着く。
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この最終段階においては、王国の富、物質、水、そして自分の考えといったものはどうでもよくなることを告げている。
 
要するに、自分の内なる世界に身を置き、所有しているものを手放していく、ということだ。
これを遂行すると、おのずと無我の境地が訪れ、善悪が存在することすらなくなる。
 
そしてこの壁さえ壊すことができれば、愛だけが存在するナッシングネスに到着できるのだ。
 
 
逆説的ではあるが、人間というものは自分が無であることに気づくと、真のパワーを発見することができる。
大英帝国を制圧したガンジーのように。
またブッダや空海、アッシジの聖フランチェスコ、ネルソン・マンデラなどもこのような真のパワーを持ち合わせていた存在であった。
誰もが、1パーセントではなく、99パーセントのナッシングネスにフォーカスするようになれば、彼らのようにパラフルになれるのだろう。
 
自分自身が無であると感じて、頭で分析することをやめれば、すべての人を愛することができる。
自分が何も所有しない事とは、自分が所有されるかもしれないことからも自由になれることを示している。
 
これをスーフィーの物語は教えてくれている。
 
スピリチュアルな生長には、カオスであろうと、不可解なものであろうと、狂気であろうと、それらの中に神の叡智が隠されている。
そしてその神が一番愛するのは、やはり謙虚な人間なのだ。
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私は彼の言うことを、頭では理解できるのだが・・・・
いゃ、「」で理解している限り、まだまだ道のりは遠いと言えるだろう。
 
 
 
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物質的なスピリチュアルの世界に冒されている今、溢れかえるスピリチュアル系グッズや呼吸法が真実のスピリチュアリテイであると勘違いしている人が多すぎる。
 
もはや、地球全体と地球上のすべての存在が、音を立てて崩れていく世界経済と共にこの谷を通過しなくてはならないかもしれない。
今後、街に溢れるモノをお金で買うことができなくなったり、所有すること自体が不可能になる時代が来るかもしれない。
 
人類と言う種そのものが、今この瞬間にも、その存続が危ぶまれているのは事実である。
険しい谷を通り抜けると言うクエストのことは忘れ去られてしまっている。
 
けれども、誰にも遅かれ早かれ、その時がやってくる。
それが死の瞬間であれ、謙虚さとナッシングネスが重要であると気づいた瞬間であれ、日常生活であれ、いつかはその谷をわたることになる。
 
聖フランチェスコのように裸になる必要はないが、自らかぶっている仮面を全部剥がさねばならないだろう。
もう逃げ道はないのだ。
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サイムルグの宮殿にたどり着いたときには、鳥たちは37羽しか残っていなかった。

フーポーは彼ら全員を、鳥たちの王様が座っている部屋へと案内した。

鳥たちは疲れ果てて、羽は落ち、かっての美しさを失くして倒れる寸前であった。

彼にの心は、完全に憔悴しきっていた。

 今、彼らの頭のなかにあるのは、王様は一体どんな姿をしているのだろうか、ということ。

彼らはフーポーに案内されて、サイムルグが歓迎してくれる部屋に入っていった。

 しかし、それからフーポーが、ようやく何かを語りかけるまで、彼らは永遠とも感じられる長い時間を待ち続けなければならなかった。

 「サイムルグと対面する準備が整いましたか?」

 全員が恐る恐る首を振った。

 「あなた方に言っておかなければならないことがあります。 みなさん、サイムルグと言う言葉の意味をご存知ですか?」

 とフーポーは続けた。

鳥たちは突然、静まりかえり、残った者たちの顔をお互いに確認し合った。

それから全員がフーポーの顔を見つめたのである。

 すると、彼らは皆、一斉に何かに気が付いた。

 なんということか、サイムルグとは、37羽の鳥と言う意味だったのだ!

 その瞬間の彼らの驚きを想像できるだろうか?

彼らの長旅の意味について、電気が走るように瞬時に理解できた時のショックを。

 彼らは、互いの顔を静かに見つめ合った。

 そして、自分たちがサイムルグであったというその確信を実感し始めた。

 

鳥たちの王様とは、各自自分たちの心の中で生きていて、常に一緒にいたことに彼らは気付いたのだ。

 この気づきこそが、彼らをスピリチュアルな存在にするのだった。

 彼らの外観はさっきまでと変わらなかったが、彼らの心は、完全に変容していた。

 ついに、やっと彼らは故郷にたどり着いた。

そして今も、彼らとともに”その友”は永遠に生き続けている。

 
(資)文化財復元センター  おおくま

「スーフィーの賢者ルーミー”その友”に出会う旅」エハン・デラヴィ著 第2部

鳥たちの旅は終わった・・・・
 
しかし、著書は終わっていなかった。
 
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第2部」の幕が開いた・・・・
それはルーミーの詩を挟みながら、今度は我々の「魂の旅立ち」であった。
 
私はここ2年ほど「神」とは何ぞや??と、ずっと探してきた。
そして古神道からスピリチュアル系に至る、いろんなジャンルの本を読み、その都度、「その時」はこれぞ私の求めたものと思えたのだが、すぐにまたその矛盾に気が付いた。
 
そして次から次へと本を読み漁った。
元来、私は本を読まない。
それは「自問自答」することで、多くの答えを得てきた。
 
そこから学んだことは「知識」より「智慧」、そして「思考」することこそ価値があると判った。
 
だからそれ以後、あまり本を読まなくなったし、「知識」には興味を持たなくなった。
たぶん30代に入ってからだと思う。
それから30年、技術書の類には目を通すが、哲学や宗教関係の書物は目にしていない。
 
なのに、60歳を超えてから、読み漁り、知識としてより「智慧」として多くを得た。
たぶん1年半ほどの間に50冊くらいは読んだと思う。
しかしその後この半年の間に、さらに50冊くらいは読んだ。
 
私は長い間、神からと思われる試練の中に居た。
それもちょうどお盆の時期、その試練の答えがわかった。
そして、一時的に少しだけ解放された。
その試練の答えをずっと探していたとき、自分の霊的成長を求められていることに気が付いていたのだが、しかしどうすれば「波動」をあげられるのか?
随分と探したが、良い方法は得られなかった。
 
 
そのお盆を前に、やっと自分の「守護霊」と意思疎通ができることに気が付いた。
そしていくつもの問いを出すと、その都度「閃き」となって返ってきた。
 
そう、「ことば」を求めても、それは夢の中にも現れず、閃きやイメージとして私に伝えられた。
 
そう、その証拠もなければ、確信も持てない。
しかしそう「感じた」のである。
大事なことは「感じること」、つまり「直感」を得た。
 
そして、試練の答えは「信じること」だと判った。
 
その答えに絶対に間違いはない、確信している。
 
試練はそれで終わったと思った・・・
しかし、そうではなかった。
 
どうもまだ続きがあるようである。
 
私には「まだまだ波動の上げ方がたらん」と神様から文句を言われているようである。
 
そして、今度守護霊から導かれたのが「エハン・デラヴィ」氏であった。
 
それはfacebookである人がリンクを貼っていた「聖なる国、日本」だった。
私はその本と「神道よ!今こそ《古来の本物の道》に戻るのだ!」を取り寄せた。
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そのエハン・デラヴィ氏の日本文化に対する洞察の深さに驚いた。
 
そして「エハン塾」の動画を最初からすべて目を通した。
実にすばらしい洞察力、知識の幅の広さ、大いに学ぶべきものがあった。
 
それから、彼の著書をずいぶん買い込み、次から次に読み、そして紹介した。
ブログを見ると、私は熱心な「エハン教」の盲信者だと醒めた目で見られたであろう。
 
しかし、私はいたって冷静に見ている、彼を・・・
 
先日、「小さな親切」と「大きなお世話」と何が違うか?という話をした。
中身は同じでも、「受け取り方」が違うと、その意味は180度変わってしまう。
 
 
同じように、他人や出来事から「学ぶ気」があれば、それは「自分の糧」となる。
 
しかし、悲しいかな多くの人はその学ぶ気を持たない・・・・
とてももったいないと私は思う。
 
よく「反面教師」と言う言葉も使う。
これもどんなことだって、自分の「受け取り方」でプラスにできる。
 
 
だから、私はエハン・デラヴィ氏から多くのことを学べる。
自分に学ぶ気があるから・・・・
 
 
話をこの本に戻すと、この第2部は、鳥の比喩としての探求の旅からさらに高みを目指す、「人としての旅立ちの薦め」だと思う。
自分の受け取り方次第で、どれだけの波動を上げられるか?
 
まさに自分次第だと思う。
 
私を彼の存在に導いてくれた守護霊に感謝し、そして私にさらなる悟りへ誘ってくれた「」に心から感謝します。
 
また、彼の著書と関連する本を注文してしまった・・・
この際、学べるだけ学び、波動をあげられるだけ上げることに努力することにした。
 
(資)文化財復元センター  おおくま
 
 
 

空間エネルギーは実在する。

私は何度も何度も「空間エネルギー」の存在をブログに書いてきた。
 
しかし、興味を示さないのか、はたまた信じていないのか・・・・・・
 
 
そこでニコラ・テスラの研究も話題にした。
 
今日、動画で「ニコラ・テスラ」を検索した。
すると多くの動画があるのだが、ほとんどは海外制作のもので、いくつかは日本語の字幕が入っていた。
しかし、おかしなことにその日本語の字幕は削り取られて、読めないように加工されている・・・・
 
だれが指示したのか?
当然、そのエネルギーが認知されると困る輩が居るわけである。
 
そこでまた他のものを探した。
 
この動画は日本語の吹き替えとなっていて、無事見ることができる。
 
そして、いかにその普及がある勢力に不利益を与えるか?
そしてほとんどの研究者は、抹殺されるか、脅迫を受けているらしい・・・・
 
 
これでもあなたは「操られている」事が信じられませんか?
 
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(資)文化財復元センター  おおくま
 
(資)文化財復元センター  おおくま

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