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税所敦子を御存知ですか?

あることがきっかけで、「税所敦子(さいしょあつこ)」という人物の存在を知った。 彼女はどうも明治時代を生きた人で、歌人であったらしい・・・ ネットで検索すると、たとえば「鹿児島市」のHPには

■解説:税所敦子は、京都の生まれで、京都の薩摩屋敷に仕えていた税所篤之の後妻になりました。 とてもすぐれた人で、和歌や画にもすぐれ、斉彬の子、哲丸の守役のあと宮内省に入り、女官として二十六年間も天皇、皇后に仕えました。(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
と、記されていたり、「朝日日本歴史人物事典の解説」によると、
生年: 文政8.3.6 (1825.4.23) 没年: 明治33.2.4 (1900) 明治時代の歌人。京都生まれ。旧姓林。幼少より歌の名手となることを願う。千種有功に桂園派の和歌を学ぶ。28歳で夫篤之に死別したのち,十数年間,島津家,京都近衛家に仕えた。明治8(1875)年51歳で皇后の歌のお相手として宮中に出仕。権掌侍となり楓内侍を名乗った。亡くなるまでの26年間,精勤した。温雅な歌風の旧派を代表する歌人であり,歌集『御垣の下草』(1888年12月)は,当時旧派詠歌入門の典範とされ,没後同書後編(1903年5月)が編まれた。ほかに紀行文集『心つくし』(1853),『内外詠史歌集』(1895)などがある。 (北田幸恵)
と、記されている人物だが、これらの説明では、その人の本当の魅力は伝わってこない。 しかし、彼女の本当の魅力を伝える文章が、ネットで見つかった。 愛知県にある「南岳山・光明寺」のご住職の法話の一つに「歌人・税所敦子(さいしょあつこ)」 http://www.koumyouji.com/houwa/59.htm と、題された文章だが、この文章は、彼女の本当の魅力を伝えてくれる。
 
歌人・税所敦子(さいしょあつこ)       H23.10  南岳山 光明寺 ご住職法話より
幕末から明治にかけて活躍した女流歌人に税所敦子(さいしょあつこ)さんという方がおられます。彼女は、文政8年(1825年)京都の宮家付き武士(宮侍)の家に生まれ、幼い頃から歌に親しまれ、20歳で薩摩藩邸(京都)に勤める税所篤之(さいしょあつゆき)氏と結婚されます。
 
短期で気性の激しい夫によく仕え、近所の人からは、「あんなに無理を言われて、よく我慢しておられますね」と言われたそうですが、そんな時決まって「武士の妻として、何かと足りないところの多い私を人並みの武士の妻にしてやろうとの思いから、言葉も荒くなったり、手も上げられるのでしょう。夫の憤りの強いのは私のことを思ってのことです。ですから夫のことは少しも怨んではおりません」と、答えたといいます。
 
こうして献身的に仕える敦子を、いつしか夫も心からを敬愛するようになるのですが、その幸せも長続きせず、彼女が28歳の時、夫は病で亡くなります。 
しかし、悲しみにくれる間もなく、彼女は姑の世話をするため、一人娘(徳子)を連れて、夫の郷里である鹿児島に赴くのです。
 
鹿児島には姑のほか、篤之と前妻との間にできた2人の娘、さらには五人の子供を連れた弟夫婦が同居しているという大家族でした。
ことに姑は近所の人から「鬼婆」と、陰口されるほどの気性の荒い人で、敦子に対しては事毎に意地悪く当たるのです。
しかし彼女はそれをじっと辛抱するばかりか、「まだ自分のお世話が行き届かないからだ」、「自分に足りないところがあるからだ」と、自らに言い聞かせ、姑に仕えるのです。
 
当時の鹿児島は”よそ者”を嫌う気風が強いところでしたが、孝養を尽くす彼女の姿に人々は皆、これを賞賛して止みませんでした。
そんなある日のことです。
外出先でどうへそを曲げたのか、憮然とした面持ちで家に帰った姑は、彼女を呼び寄せ次のように言うのです。
「あんたは歌を作るのが上手だそうだな。今、この婆の前で一つ歌を作って見せてくれぬか」
「はい、いかような歌を作りますので」と、彼女は素直に応じました。
「それはな、この婆は、世間で鬼婆と言いますじゃ。それで、その鬼婆の意地の悪い所を正直に歌に読んでくだされ」
敦子は驚いて、「まぁ、とんでもない。」と言って、しばらく熟考した後、次のような歌を短冊にしたためるのです。
 
     仏にもまさる心を知らずして  鬼婆ばりと人は言ふらん
 
短冊を手に取り、しばらく無言で見ていた姑は、ついに大粒の涙を流し、「今日まで意地悪のし通しじゃった。それほどまでにねじれきったこのわしに《仏にもまさる》とは……本当にすまなかった。許しておくれ」と手をついて心から謝まったそうです。
 
歌人である彼女は次のような歌を作り、いつも自らを厳しく律していました。
 
     朝夕のつらきつとめはみ仏の  人になれよの恵みなりけり
 
いかなる苦労があろうとも、それは「本当の人間になってくれよ」と働きかけてくださるみ仏の「お恵み」ですという歌でありますが、いかなる苦難をも恵みと受け止めていくところに、長年仏法に親しんでこられた彼女の素晴らしい智慧が光っています。
 
その後、彼女の貞節ぶりが、薩摩藩主島津久光候の耳に入り、登用されて、その息女に仕えて10年、更に島津家から近衛家に嫁入られる際に伴われて近衛家に移って10年、よくその任を果たされます。
 
さらに明治8年、高崎正風の推挙によって、宮中に入り、明治天皇皇后両陛下のお世話係(掌侍)としてお仕えすることになるのです。
両陛下のご信任ことのほか厚く、人々は彼女を明治の紫式部と讃えました。
 
また、宮内卿・伊藤博文公も、たびたび彼女と打ち合わせをする機会があったそうですが、「あれ程えらい婦人に会ったのは初めてだ」と、周りの人に話していたといわれています。
 
また宮中にあっては、外国要人の接待に不自由とのことで、50歳を過ぎてフランス語、英語を勉強され、短時日のうちに習得したとのことです。
 
こうして波乱多き人生を送られた税所敦子さんは明治32年2月、多くの人に惜しまれながら76年の生涯を閉じられました。
 
清楚で気品があり、文学の素養豊かにしてしかも謙虚である、まさに彼女こそ「千古の婦人の鑑」であります。
この文章は、ご住職が自分で書かれたものらしい・・・ 実によく「税所敦子」なる女性の素晴らしさが、滲み出ている文章だが、実はその彼女の姿に胸を打たれ、その姿を「税所敦子 孝養図」と題して描いた画家がいた。 その彼女こそ、明治時代の美人画で有名な「上村松園」であった。

(資)文化財復元センター  おおくま

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