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還暦

今日は私の誕生日。

還暦というと、四十のころ、とても年寄りをイメージした。

    

    

でも、この歳になると、当人に全く自覚がない。

自分としては、まだ50歳そこそこくらいの気持ちしか持っていない。

特にこの仕事を始めてから、まだまだやらなければならないことが山積みであり、一般の人々はこれから余生を送る歳だろうが、これからも当分頑張り続けなければならない。

    

   

私は子供のころから、友達と遊ぶより、物思いにふけることが好きで、いろんなことを空想して楽しんだが、小さい時は結構賢かったらしく、末は博士か大臣かと期待されていたようだが、昔神童のなりの果てが、現在の姿といえる。

    

そして、中学頃から結構理屈っぽくなり、子供なりに哲学書を読み始めた時期があり、また「名言集」などを好んで読んでいた記憶がある。

その中に今でもいくつか記憶している言葉がある。

その中で一番記憶に残るのが、「男は四十を過ぎると顔に責任がある」というリンカーンの言葉だが、その意味は子供には理解できなかった。

    

顔は親の遺伝、突然変異でもない限り親に似るから、自分では責任の取りようがない。

それが子供の頭で理解できる範囲であったが、自分が四十になったとき、やはり今と同じように自覚がなかったことを記憶している。

    

    

ただ、人は生まれてから変わらぬ人はいないわけで、生活環境・親のしつけ・教育・仕事等、多くの影響を受ける。

その中で人格は作られるのだろうが、それはいずれ顔にも表れるようになる。

    

    

持って生まれた美貌は、文化財と同じでいずれ朽ちはじめる。

しかし、ちょうど中年に差し掛かるころに、その美貌の衰えに変わり、人生で学んだことが顔に「味」として出始める。

わたしも47歳で離婚し、多くの女性と付き合ってきたが、離婚してから風呂上りにふと見た自分の顔が変わり始めたことに気が付いた。

それから数年、自分の顔を被写体として追い続けたことがある。

    

    

そうだその変化を還暦の記念に見ていただこうかと、この文章を書きながら思いついた。

ただ、ナルシストではないので、念のため・・・・

あくまでも写真家として、被写体の魅力を追い続けた記録である。

    

47歳頃 47歳頃 47歳頃
B-03 B-10 C-01
P9250003 2005_0925_062247AA DSCF0046
DSCF0011 DSCF0014s くまさんアップのコピー

     

(資)文化財復元センター  おおくま

専門家の意見?

よくニュースで何か事件があると、その締めくくりに「専門家」と称するする人が解説したり、意見を述べたりする。

特にNHKでは、その最初に「専門家の意見です」と、はっきり言葉が入る。

そうすると、その専門家のいっていることが正しいと、誰でも信じてしまう。

しかし、どうなのだろう?

先日も万人に通じる常識はなく、立場やくくりに応じて、それらには違いがあると述べたが、その分野の専門家はすべて同じ考え方といえるだろうか?

当然違う考えを持つ、「その道の専門家」と言う者がいることは、誰にでも想像がつく。

しかし、時間の関係だろうが、それらが複数紹介されることは稀にしかない。

そうすると、自らの頭で物事を考えようとしない人々は、その紹介された専門家と称する人の言葉をうのみにする。

わたしは若いころに学校で教えられたことが正しいものと思ってきたし、またマスコミのニュースで取り上げられるものは「中立」の立場だとずっと信じてきた。

しかし還暦になろうとするここ数年、それらの考えが本当に正しいのだろうかと、疑問を持つようになった。

そこにfacebookの友達の書き込み内容の影響も少なくない。

つまり、私の仕事の関係で、宗教関係や芸能・芸術そしてマスコミ関係の人が多く、その人たちが何を考えているか?

それを知る機会を得たわけだが、それらは私が習ったことや、ニュースとして流されたことと、大きく異なることが多い。

一つの同じ事柄でも、それは立場に応じて、まるで逆の意味だったりする。

そんなときに、あたかもこれが正しい判断だとして示される「専門家の意見」ほど、人々を一定方向に先導しやすい言葉はない。

これをうまく利用すれば、何も自分で判断しようとしない不特定多数の人々を、まさに洗脳できるし、世の中をある方向へ持っていくことを狙っている輩と言うものがあるとするなら、最大の武器がマスコミであろうことは容易に判断できる。

くれぐれも自分の頭で、自分の判断基準で、物事を考えたいと思う。

(資)文化財復元センター  おおくま

研修記録-2
文化財復元センターにて研修7日目。
相変わらず何もできないが、
初めからできたら修行などいらないので、地道に研鑽を積みたいと思う。    
古写真の復元作業を引き続き行う。
今日はお父さんの着物部分を重点的に取り組んだ。  
   
 
   
現状画像
現状画像
修正画像
復元画像

細部をこちょこちょ作業していると、大隈先生にまずは全体のトーンを整えるようアドバイスいただく。
鉛筆デッサンに通じるものがあると思った。
        

    
木を見て森を見ず。
細部にこだわるのではなく、全体を見る目を養いたい。
印象派画家の絵は、近くで見ると絵の具がそのまま塗りたくってあるように見えるが、
離れて見ると絵として成り立っている。
        
    
しかもきれいにグラデーションで均した絵よりも、エッジが効いて鮮明だ。
人間の目は案外いい加減だ。
主観にとらわれないように、客観的に見ながら作業を進めたい。  
永田千佳
叩き割られた故宮のガラス

ちょっとネットのニュースで文化財がらみを検索してみた。

すると早速YAHOOのニュースに叩き割られた故宮のガラス「建国以前」のものと判明=中国というのをみつけた。

わたしも数年前に北京へ行き、いくつかの文化遺産を見て回り、故宮にも行った。

中国は文化財そのものにはあまり「保護」というか、お金をかけることはせずに、単に観光資源として、中国の物価からするとかなり高い入場料を取る。

にもかかわらずこのニュースでは「故宮博物院の単霽翔院長は5日、取材の記者に対して状況を説明した。同博物院には「文化財の保護」と「一般大衆への公開」というジレンマが生じていることも、率直に認めた。」とある。

ガラス1枚であっても、勝手に入れ替えられないという。

この文化財の保護と、一般公開は日本においても相容れない問題とされる。

特に京都においては有名社寺の襖絵などが、レプリカに置き換えられ公開されている。

もちろんそうすることで、文化財は保護されるのだが、果たしてそれで拝観者は不満を抱かないだろうかという疑問が残る。

日本の文化財保護の考え方からすれば、保護が優先されるのであろうが、私は違う考え方を持つ。

つまり、私だけの持論だろうが、世の中に文化財として作られたものなど存在しない。

つまり後世になり、その「文化的価値」が認められ、文化財と呼ばれる。

その価値のある文化財そのものを、できるだけ長く保存しようとする考え方にわたしも異論を唱えようとは思わない。

しかし、いくらその物質としての文化財が長生きしようとも、肝心な「人の目」に触れない状態で長生きさせることは、本来の作者の意図するものではないように思うが、あなたはいかか思われているだろうか?

(資)文化財復元センター  おおくま

記憶色

写真用語で「記憶色」という言葉がある。

人が「青い空」「赤いバラ」という言葉から連想する色は、現実の色よりより鮮やかな色をイメージするという。

アナログのフイルムの時代でさえ、それを意識して色鮮やかに写るフイルムが一般向けとして好評を博していた。

      

       

私が写真の始めた当時、「写真とは真実を写すから写真なんだ」と聞いたことがある。

ところが現実は写真は大いに嘘をつくし、その1枚の写真は民衆を扇動するために利用されたりする。

特にデジタルの時代になると、写真は「画像」と呼ばれるようになり、画像はパソコンソフトで簡単に「加工」することが可能となった。

それは記憶色以上に色鮮やかに加工され、そして安易にありもしない状況を、「画像」として「合成」して見せることができるようになった。

    

デジタル復元」とは、そんな技術を応用しているから、可能となったのだが・・・・

         

    

しかし、安易に加工できるから、私は作品としての「写真」はあえてデジタルで撮ろうとは思わない。

それは私のこだわりであるが、映画の世界も実写と3Dの区別がつかないほど、リアルに嘘をつく。

人には「慣れ」があるから、最初は「凄い!!」と感動しても、何度も同じようなものを見ると、より強い刺激を求めるようになる。

   

     

そしてだんだんエスカレーションして、バーチャルの世界にのめり込む。

そして現実では許されない犯罪が、バーチャルの世界ではゲームとして楽しめたりするのだろう。

     

     

またその区別がつかなくなると、犯罪を犯すものが増えるのだろうが、しかしそこまでいかなくても、ネットの世界には色鮮やかな画像が氾濫し、現実ではありえないような合成画像がまことしやかに嘘をつく。

    

    

そして、SNSの世界ではそれらが多くシェアされる。

    

    

それだけ共感を覚える人が多いのだろうが、いずれその感動もより過激なものを求めるように麻痺してこないだろうか?

もう一度現実の世界に目を向けて、それらの画像は嘘が含まれていることに気が付いていただきたい。

その区別がつかなくなる人々が増えることを、私はとても危惧している。

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