私がはじめてこの仕事に関わりましたのが、ちょうど2000年の秋でした。
もともと文化財や宗教などには、まったく興味がなかったものが、不思議な出来事をいくつも経験して、そしてそれらに導かれるようにこの仕事を始めました。
そしてその後も、相変わらず不思議な経験はいくつも続くのですが、私はもともと無信心なものでしたが、そういう出来事が続くと、「目に見えない不思議な力」というものの存在を否定できなくなりました。
ただそれでも、その力が目に見えることが無いものですから、その正体が果たして「神」なのか「ほとけ」なのかも確認できず、その後もずっと「目に見えない不思議な力」と呼んでいたのですが、同時に私は「自問自答」を若いころからしていますと、いろんなことを「内なる存在」は教えてくれます。
その内なる存在に「神とは?」と問いかけておりましたら、いつの間にか「宇宙の星の運行プログラムのようなもの」という答えが、自分の中にできておりました。
その後、色々とその手の本を読みながら勉強したのですが、その考え方は、ニューエイジという言葉やスピュリチュアルという言葉があり、それらの考え方に近いことを知りました。 そして「引き寄せの法則」という、宇宙の法則があることも解ったのですが、その法則を使ってこの「復元」の仕事を進展させようとしてもうまくいかない。
私はこの仕事を始めた当初に、ある霊能者から「すごい守護霊がついていて、それが私に何か伝えたがっている」と言われたことがあります。
その時点で「守護霊」の存在を知ったのですが、今回その守護霊からのメッセージと思われる「閃き」を得たのですが、日本という国には昔から「神道」というものがあり、「神」の存在が他の国より影響していることを実感しました。
つまり、私がいくつも経験している「不思議な出来事」は、「神」と呼ばれるものの存在をしろしめすものであったことを教えられました。
先日、もと春日大社の宮司であられた「葉室頼昭」さんの著書を読んでおりましたら、形成外科医であられたのに、家系は公家で、天皇と神社を結ぶ仕事をされていたとのこと。
しかし、公家の制度が廃止された明治以降も不思議なことに、ひいおじいさんも、そして軍人であったおじいさんも、銀行員であった父親も、そして医者であった本人も、結局晩年はみんな「宮司」という仕事に導かれていたとのこと。
しかも不思議なことに、ご自分以外は、すべて養子として葉室家の外から入ってきた人だというから、決して遺伝ではないという。
まさにそこに、人の人生は自分で決められるものではないことを、実感させられたのですが、そこに導かれた「神」という存在を、葉室さんは実に判りやすく説明されています。
その宮司をされていた葉室さんも、神道は宗教ではないと言われ、そして「神」とは「無」から「有」を生み出した「宇宙のこころ」だと言われます。
ご本人も、阪大の医学部の学生の時、肺結核で倒れられ、戸板に寝かされて東京へ帰るときに、知人から渡された1冊の宗教の本を読むと、あまりに感動し、涙が止まらなかったと言う。
そして、その1冊の本が彼の体から完全に肺結核消し去ったと言う、そういう不思議な経験されており、そしてご自分が医者という立場で言われているのですが、その「加護」を得られた人と、得られない人では、たとえば交通事故で病院に担ぎ込まれても、歴然とした結果の差が生じ、加護の無い人はあっけなく死に、加護の得られている人は、奇蹟的に助かると言われます。
見えなくても、「存在」するからこそ、その差は生じる。 また最近「サムシンググレート」という言葉も聞かれます。ある大学での実験でも「祈り」の効果が確かめられています。
その葉室さんの著書に「<神道>のこころ」というのがあり、その中に「見えないものを信じる力」という項目があり、そこに
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この世の中は見えないものが真実、実在なんですよ。
宇宙は見えないんです。見えるものはほんのわずかしかない。
というのは見えるものというのは眼球が感じる波動しか見えない。
ところが波動というのは無限にあるんです。
だから見えないもの、実在のものが無数にあるんだけど、無数にある波動をわからせるには、少しだけ見せてやろうということなんです。
それが宇宙の仕組みでしょう。
少しだけ見せてやったら、見えないものがある、それのすばらしさがあるということを感じるでしょう。
全部見えてしまったら感動がない。
だからほんのわずか、人間の目が感じる波動は、宇宙の無限の波動のなかのごくわずかなんですね。
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と書かれていますが、私もこの仕事は、「可視域」では朽ち果てたり、黒ずんだりして見えなくなったものでも、「可視域外」つまり「目には見えない」赤外線や紫外線を使うと、そこに残っているものがあると言うことを使って、「制作当時の姿」を、現在に甦らせるものです。
しかし「目に見えないもの」はそういう「かたち」の在るものだけではなく、そこには「先人」つまり、それを残した人の存在があり、「何故」それを残したのか?
その「思い」こそ、残すべきものだと思います 。
そしてその「思い」は、実は「物質」にも宿っています。
そしてその先人が存在したから、現在のわれわれは「在る」のだと言うことを、私達は忘れてはならないと思いますし、そしてそれが本来その文化財の本当の価値だと「内なる存在」は教えてくれました。
先人とは、個人的に言えば、「先祖」であり、社会的に言えば「組織の創始者やその意思を受け継いできた人たち」を差します。
そして、我々がその「先人」の残したものを、次の世代に繋がない限り、また我々の残したものも、次の世代に引き継がれないということです。
つまりそれらは先人からの「預かり」ものなのです。
預かった者はそれを次の世代に受け渡す「義務」があります。
唯物論や科学というものを、我々の時代は信じ切っていますが、実はそれ以上に大きな「目に見えない存在」があり、それらが本当は我々を動かし、生かしているということを忘れていると葉室さんも説かれていますが、その「神」の意思を活かすために、私はこの仕事に導かれたと信じています。
ずいぶん昔の話ですが、当社の技術をある社寺の出入り業者の方にお見せしたら、「なんや、実物が綺麗になるのと違うのか?」と、がっかりされたのですが、魔法でも使わないと朽ちたものは元には戻りませんし、また形あるものはいずれ朽ちて土へと還るのが、自然の法則です。
本当のモノの価値は、物質にあるのではなく、その中身こそ本来の価値を持つものです。
ですから私は、デジタルは物質を有しておらず、朽ち果てることもありませんから、まさに「デジタル画像による文化財復元」は、その先人の「思い」を朽ちることなく、後世に伝えられる大事な技術であると確信しております。
20014年7月30日 (資)文化財復元センター 大隈 剛由
追伸ですが、もし私の経験した出来事にご興味があれば、YouTubeにいくつかアップしております。