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東条英機と東京裁判の裏側

困ったものだぁ・・・

まだまだこんな話がやまほどでてくるだろう・・・

確かに私も「東条英機」という人は立派であったと思う。

ただ、誰かが「戦争責任」を取らなければならなかったから、彼はあえてそれを受けた。

東京裁判は、我々日本人には知らされていない「」が、随分とある。

それらは多くの本に書かれていることだが、日本の天皇と一部の側近たちはすでに、

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5月1日、裕仁は木戸に、ドイツ降伏の切迫性を警告し、その件について50分にわたって協議した。(木戸日記)その翌日には、二人に、アドルフ・ヒットラーの自殺についての話が伝わった。16ヶ月前の和平計画では、木戸は、ドイツの敗北の前に和平交渉に入ることを望んでいた。連 合軍が、日本の首を絞めるにも両手が自由に使えるようになった今、終戦の条件交渉の最後の望みも消滅し、無条件降伏は避けられない事態となっていた。しか し、日本は、合理性の通らぬ国家として理解されなければならなかった。そうでないと、天皇の介入や、「鶴の一声」の必要も考えられなかった。またそればか りでなく、正気を失った状態すら維持されることを必要としていた。ドイツが公式に降伏した5月7日、木戸は、自分の金庫室に入り、天皇を犯罪人とさせるか もしれぬ文書や回顧録を運び出していた(木戸日記)
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と、ディビット・バーガミニ 著「天皇の陰謀」に書かれているが、この著者は日本生まれのアメリカ人で、戦時中はアジアの日本の「外国人収容所」で過ごし、日本人の「個人」としての優しさと、「集団」としての残虐さの両方を知っている。

その彼が終戦後、1960年代にアメリカで生活し、「ライフ(Life)」の記者をしているときに、取材のためにわざわざ家族を連れて京都に住み、「多くの資料」と「関係者の証言」を元に、帰国後に書き上げた数冊にも及ぶ、日本の「天皇制」に関する長編の書物であり、決して小説ではない。

 

話を戻すと、すでに敗戦の年の5月1日の「木戸日記」には、天皇と木戸とでそういう会話がなされ、その翌日にヒットラーが自殺したが、この時点で「16か月前」から「和平計画」が練られていたと、記録されている。

 

つまり、沖縄戦も東京大空襲も、原爆投下も、すべてそれ以前から、天皇は「終戦工作」に掛かっていたということになる。

が・・・

何故それがそんなに長引いたのか?

それは「国体維持」つまり「天皇制維持」が絶対条件とされ、そしてできるだけ日本側の戦果が上がった時期を見ながら、可能な限り「有利な条件」で、和平にこぎつけるタイミングを待っていた。

その間に、それらの出来事があった・・・・

ただし・・・・こういう天皇と側近とで「和平に向けての動き」が有ったことを、当時東条英機は知らなかった。

そして、実際にその間にアメリカ側とは「ヨハンセングループ」を通じ、終戦のための駆け引きがなされていて、なかなか日本にとって有利な条件が得られなかったが、「原爆投下」を受けて、さすがに天皇もこれ以上条件付けを待つのは無理だと「無条件降伏」を受け入れた。

終戦後も、側近やヨハンセングループを通じ、マッカーサーと裏で「終戦処理」の「裏工作」がなされていたのだが、マッカーサーは、もし天皇を処罰すれば、日本人は暴動を起こしかねない・・・

それを抑えるには、大勢の「占領軍」の人数が要るし、経費もかさむ・・・

それより、「天皇制」を利用して、日本人を支配したほうが、安くつく・・・・

そういう、アメリカと日本の「利害関係」が一致したから、天皇を処罰の対象から外した。

しかし、誰かに「戦争責任」を取らせないと、アメリカ本国の国民も、他の連合国も承知しない。

その中で、アメリカが勝手に「A級戦犯」を決め、勝手に処罰したわけではなく、それまでに何度も「天皇側」と協議をしている。

その結果、東条英機をはじめ、何人かの関係者は被告席に立った。

当時の日本人は生きて辱めを受けるより、「自決」した政府や軍部のものが多く、東条英機もピストルで自殺を図ったが、心臓をそれて生き残った。

 

当時の政府や軍部の指導者は、それこそ「天皇陛下」という言葉を聞くだけで「直立不動」となるくらい、「絶対的存在」であったから、当然東条英機は天皇に戦争責任を取らせてはならないと考えたし、実際に

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その一週間前、東条大将は下村陸軍大臣――1937年、参謀を通し、南京を攻略する計画を推進していた当時の大将――に呼び出されていた。
同大臣は政府 の代理として東条に、避けられなくなった場合には逮捕を受け入れ、そして、天皇ではなく東条に戦争責任があると連合軍を説得に至れない際は、自決を先行す るよう要請した。東条は、自分の力のおよぶ限り、天皇を擁護し続けることを約束したが、名誉のためにあえてする自決かも知れないとも警告していた。

彼は、 望んで自首し、求められる日本のいずれの刑務所にも出頭する積もりであったが、戦場で捕虜となるような様は甘受したくなかった。彼は兵士であり、生きて捕 虜となることを恥と誓っていた。下村陸軍大臣は彼に礼を述べ、東条に何がおころうとも、その家族には経済的な心配はさせないと言った。

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ところが・・・・


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裁判の終結が近づき、絞首刑とか禁固刑とか無罪放免とかといった被告席にある者たちに下される判決の瑣末事項に注目が集まってくると、キーナンは自分の 立場が次第に困難となっていることに気付いた。1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。彼は生贄の羊となることを望んで はいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は限度を越えていた。中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるい は、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金 にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた。( New York Times, Oct. 12, 1947)

 要するに、東条は不当な扱いへの不満を抱いており、それを訴えるに違いないと期待されていた。彼は融通が利かないほどに理屈っぽく、ほぼ西洋的な考え方 をしていた。彼は受け入れた毒杯を法廷の床に投げつけ、皆に飛び散らかせるかも知れなかった。だが、アメリカの検事、ジョン・W・フィエリーは、刑務所で 東条に尋問し、彼のケースの複雑さの一部始終を知っていた。そこでキーナンは、東条を法廷で審問し彼を正しく導くことは、政治的栄光を獲得することでも あったため、フィエリーを左遷することに決め、東条の反対尋問を自らが行った。正確に言えば、彼は自分が反対尋問を行うことが許されると要求し、フィエ リーにその詳細な追及をさせたが、法廷は、ウェッブ判事が異議を述べたものの、各被疑者にはただ一人の反対尋問者が許されることが最も公平であると裁定し た。キーナンは自分で全責任を受け入れ、フィエリーはそれに抗議して検事を辞任したのであった。

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その結果・・・

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キーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓 の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に 行き、木戸の前秘書で天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕 仁よりえた。東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。木戸はまた、刑 務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。(著者バーガミニ自身の見解。 私の友人が私に代わって、知人である東条夫人に問い合わせて確認)

 
小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。二日にわたって話が交わされた 後、ついに東条は折れた。彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに 反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
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こういう、我々日本人には知らされていない裏取引の結果、彼は罪を認め死刑を受け入れている。


だから、今頃になって何も東京裁判が連合国側だけの「不当な裁判」で有ったと騒ぎ立てるのは、明らかに筋違いであり、こういう話を最近随分と聞くのだが、その裏には間違いなく、安倍と日本会議が結託して、戦前の「帝国憲法」へと持っていき、天皇を担ぎ上げてまた「侵略戦争」を始めるための、プロパガンダだということを理解しておかないと、防衛目的ではないことをはっきり知っておいてもらいたい。

(資)文化財復元センター おおくま

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