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「7つのチャクラ」キャロライン・メイス著・その2
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002
第3チャクラは、個人の「内面」の力と関係しているらしい・・・・
 
ここは「自分を尊重せよ」と言うものらしく、実はこの本にはずいぶんと不思議な人生を送る人の例が出てくる。
 
このチャクラに関するところに、車いす生活の老女の話が出てくるのだが、著者はホテルでその老女の後姿を見ながら、障害があるのにどうやって過ごすのか?それを考えていたら、突然その後ろ向きの老女が振り向いて、私のことを考えているのね?と、言い当てたらしい。
 
それからその老女の人生を聴くのだが、彼女はユダヤ人だが二人の娘が居て、上の子は仏教のコミュに入ったらしい・・・
老女はそれが気に入らなくて、その娘につらく当たっていたが、その娘がドラッグの経験をしていることを知り、「私にもやらせてほしい」と言うと、LSDを持ってきたらしい。
 
面白いのは、普通は親は止めるものだが、自分も経験したいと言う。
それは娘の気持ちを理解したいからなのだろうが、しかし老女はLSDを呑むと、自分の「守護天使」が出てきて、自分の守護をするのがどれだけ大変か?その天使はぼやいたと言う。
 
その老女は随分と歪な性格だったらしい・・・
 
この話で思い出すのが、エハン・デラヴィ氏の話である。
 
彼もグラハム・ハンコック氏も二人とも、アマゾンで祈祷師から与えられた幻覚剤を呑み、異次元を体験しているらしい・・・
 
まさにそれと同じことを、その老女は体験したわけだ・・・
 
その老女は守護天使の嘆きを受け入れ、自分を改めたら、娘とも仲良くなったとか。
 
 

 
第4のチャクラは、人間の気系の中心であり、身体と霊の仲介役を務めると言う。
 
私がこの本から多くを学んだと言うのは、この本の中では「気=意識」や「」や「」と言うものの存在が、あたかも目に見えるような世界と同等に語られている点である。
 
もちろん「」についても言えるのだが、彼女はカトリックであり「神学」を学んでいるのだが、神の存在は当然だと思っているから、それに類する世界もまた当然の存在と捉えているようである。
 
しかし、現在の日本において、クリスチャンは人口の1%らしく、ましてはキリスト教の神学はたぶん偏った思想が植えつけられるような気がするし、また神道や仏教では別の呼び方があるらしいが、それとて、実際に神と繋がれるとも思えない。
 
この著者は、聖職より「癒し」の重要性が判り、それを仕事としたようである。
 
 
 
このチャクラは知性よりは「感情」と共鳴し、また感情の方が「人生」を大きく左右すると言う。
 
で、ここに書かれていることで私が一番気になったことだが、「自分の手を離し、神にすべてを任せる」ことができるかどうかを決定するのがこのチャクラらしい。
 
この「すべてを神に委ねる」と言う話は、時々精神世界の本に出てくる。
つまり人の人生なんて、人が決めるモノじゃなく、神さまに任せておけば、神さまはすがるものを見捨てないと言う。
 
なるほどとは思うのだが・・・
しかし、私のような完全主義者はなかなか「自分の努力」を止められないし、また他人に、いゃ例え神であっても自分の人生を委ねることができるようになるには、ずいぶんと心の葛藤が必要である。
 
 
また、もっと上のチャクラの話になれば、身体的と言うより霊的な関わりが強いらしく、どんどん私が気になる話が出てくる。
 
 
 
第5チャクラは自分の霊と意志の力をあきらめ、神の意志に従うと言うチャレンジを体現していると言う。
 
うぅ・・・・・・・
この言葉も私に重くのしかかる。
 
どうも著者に言わせると、霊的な視点から見ると、最も次元の高い目標とは、個人の意思を完全に手放し、それを「神なる存在の手」に委ねることだと言う。
イエスや釈迦も神なるものの意思と完全なる合一を体験したと言う。
 
俗にいう「神との一体化」ということだろう・・・・
 
著者は「恐れ」が一番、気に影響すると言う。
これは他の本にもある話だが「恐れ」「怒り」「不安」「心配」などのマイナス思考が、気を弱らせるし、神の意志に反しているらしい・・
 
また私たちは時折は、人生をコントロールしているのは自分だと言う幻影の中に生きていると言う。
 
しかし、高次の意識は個人の意思を神なるものの意思にゆだねることであるが、先ほどの「恐れ」–「驚き」–「恐れ」–「驚き」と言うサイクルをくりかえすことになるが、しかしいずれ「祈り」に到達すれば「選ぶのはあなたで、私はそれに従います」と言えるようになると、同時に数限りない「共時性」や「偶然」と思えるような出来事が続くことになると言う。
 
摩訶不思議な世界に到達すると言う。
 
そういうものなのだろうか??
我々は自分の人生を自分でコントロールするのが当たり前であり、また人生で悪いことが続くのは本人の努力が足らないと、決めつけるような世界に育った。
 
しかし、それは根本的な人間のおごりであり、神に対する冒涜とも言えるようである。
そうすると私のように、無意識で人の何倍も努力する「」のついているものにとっては、最悪の結果が待っているわけだ・・・
 
それで私の人生はいつも恵まれてこなかったわけだ!!イヤホンマ・・・・
 
 
 
第6チャクラ、今度は感情ではなく「知性」「理性」「信念」などと関わっているらしい・・・
俗に「第三の目」と言われるところである。
 
 
この著者の凄いところは、例えばどんな人間であろうと、また集団であろうと、自分の人生を決めることはできないということに気づく事が大事で、もし自分の人生に変化が訪れるとしたら、それは「何か大きな力」が働いて自分を動かしていることになると、はっきり言っているところである。
 
つまり、神の存在が彼女にすれば「当たり前」の事であり、もし一部の人たちが共謀して自分の仕事を奪ったと思っても、それは錯覚にすぎないとはっきり言う。
 
要するに、神が我々の人生に関わっているとはっきり言っているわけだ。
 
 
私はこの本を読んでいて、何度も出てくる言葉だが、臓器には決まった波動があるとは言っているが、この著者は波動を高めるとは言わず「、意識を高める」事の必要性を何度も言っている。
私が波動を高めるとは、意識を高めると言い換えられるということと一致する。
これは「気」そのものが波動であり、場所によって違う波長を示しているからと思われる。
もう一つ「信じる力」と言う言葉も何度も出てくる。
 
私も長い間試練を受け、その答えが「信じること」と言う結論を得た。
つまり、相手が何であれ、信じる者にはエネルギーが与えられ、信じない者にはエネルギーとならない。
それは「空間エネルギー」として、目には見えないが存在すると私は思っている。
 
著者も信じる力が、「」のエネルギーを高めると言う。
 
 
 
第7チャクラは霊性とのつながりだと言う。
そしてそれは「神なる存在」と親密な関係を求めるように、はっきり方向づけられていると言う。
 
著者は神なるものと親密なつながりとは「宗教」への帰属を求めるものではないと言う。
それは宗教とは集団の体験であり、その目的は「集団を守る事」であり、これは第1チャクラの役割だと言う。
 
一方、霊性はあくまでも個人の体験であり、物質的な世界の恐れを手放して、神なる存在との関係を求めるものだと言う。
 
 
 
 
この本の中には多くの学ぶべきものがあるのだが、私が一番肝に銘じなければならないことがここにさりげなく書かれていた。
 
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自分の霊を差し向ける方向として、最も崇高な行いは、次にあげるような規範に従って生きるのを選択することなのだ。
  • 審判を下してはならない。
  • 何も期待してはならない。
  • ものごとが起きる理由を知る必要性をあきらめる。
  • 予期していなかったような出来事は、霊が歩むべき道を示す一つのかたちだと信頼する。
  • 必要な決断を下す勇気を持ち、変えられないことはそのまま受け入れ、この両者の知るだけの叡智をもつ。
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これが私の苦手とするところであり、どうしても理屈っぽい性格だから、「何故なのか?」を知ろうとする・・・・
 
 
 
そして最後に、もう一つこの本で納得させられたのだが、私はもう2年近く、自分の人生が今まで以上にうまくいかないことに気づいていて、その間に守護霊が出てこれない状況や、神が助け舟を出せない状況にあるのではないかと、不安に駆られた時期があり、その時ネットで霊視鑑定にだまされた・・・
 
その後も試練は続くのだが、なぜそんな思いをさせられるのか?
私の行いはそんなに悪いのか?
 
随分といろいろ考え、反省もした。
でもまだ終わらなかった・・・
 
 
その事についてだが、著者は「待つ」ということを上げている。
それは
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自分の道を見つけようと頑張っている人たちは、必要ではあるが、よくわからなくなると「待つ」と言う状態に置かれる。
自分のある部分は神なる存在に人生を導いてもらいたいと熱望しているのだが、もし本当に委ねてしまうと、物質界での快適な環境をすべて失うのではないかと恐れている。
 
このため、恐れを手放し、「すべてはうまくいく」という深遠な心理を受け入れられる強さを持つまでは、「待ち」の状態に置かれたままとなる。
 
それも私たちの定義で「うまくいく」のではないかもしれないが、神から見れば間違いなくそうだという真理である。
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と、ものの見事に私の置かれている状態を言い当てられてしまった。
 
 
そうか、やはり清水の舞台から飛び降りて、運を天に任せるしかないわけだ・・・
これで私も諦めがついて、やけにこころに落ち着きが生まれた。
 
これも間違いなく守護霊の導きだと思う。
 
(資)文化財復元センター  おおくま

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