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「在すがごとく死者は語る」鈴木秀子・著
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この題名の「在す」と言うのを読める人は、そう多くはないと思われる。
本の題名にはちゃんと読み仮名が振ってあり「います」となっている。
 
Windowsの漢字変換では出てこない・・・・
 
 
題名から本の内容はおおかた検討は付くだろうが、シスター鈴木秀子は、自分自身も若いころに臨死体験をされており、その後「不思議な力」を授かっているようである。
 
それは当人は「癒し」の力と言われているが、「ニューソート」と言う考え方からすると、「病は気から」であるから、自分が「健康である」と意識を変えれば、全ての病気は消えると言う・・・
 
俗に奇蹟と言われているのだが、ただこの「病は消える」ということも100%自分だけの「思い」で消える場合もあれば、それを後押しする「不思議な力」と言うものも存在すると私は思う。
 
それはいわゆる、キリストや釈迦、あるいはそれに類する聖人と呼ばれる人たちには、それらの「後押しをする力」があったのではないかと思うのだが、その力の源はと言うと、それは「意識」ではなかっただろうか?
 
つまり「病は気から」の「」も「意識」であり、それを後押しする力も「意識」ということになる。
 
意識とは当然目に見えない存在であるが、しかしそれが存在するから実際に奇跡が起きる。
 
私が多く体験する「不思議な出来事」も、明らかに「目に見えない力」が加わらないと起きないことと思うのだが、そこにはやはり「意識」が関わっているのであろうが、しかしそれは少なくても私の「顕在意識」ではない。
 
 

 
人間の意識の3%が顕在意識で、残りは潜在意識と言われ、その中に「」はどうも存在するようであるが、さらにもっと深い部分がユングの言うところの「集合的無意識」と言われる部分だと思われる。
 
 
著者のシスター鈴木秀子は、その授かった癒しの力を、死を前にした人たちに提供しているようであるが、しかし「手かざし」や「念力」の様に、その力を相手に送って奇跡を起こすと言うのではなく、例えば病人に寄り添い、その悪い部分に自分の手を当て、「祈る」と言われる。
 
そこがシスターとしての「信仰心」の力となって、病人が奇跡的に回復することもあれば、神さまから授けられた命だから、伸ばせないこともあるがしかし、その人の「気持ち」の安らぎは間違いなく与えられているようで、痛みを和らげ、安らぎながら死を迎える助けになっているようである。
 
 
 
そこが私はシスター鈴木秀子の意識の高さが、イエスや釈迦ほど大きくはなくても、間違いなく凡人にはできない力となっていると思い、それを吸収しょうと私は彼女の多くの本を読む。
 
 
彼女はそういう形で「死」と接している人だから、人間は体だけの存在ではなく「」と言うものがあり、それは肉体を離れても存在することを十分に知っておられるから、「」を前にした人々についての多くの本を出されている。
 
で「死にゆく者からの言葉」などは、その死を前にした人から我々が学ぶべきものを記されているのだが、そういう本を何冊も出されていると、著者宛に数百通の読者からの手紙度届くと言う。
 
その中には読者が体験した不思議な話が書かれていることが多く、この本はそれらを元に書かれたようであるが、死後の世界と我々の生活する空間は実は繋がっており我々が困った時には、そんな目に見えない世界から助けてくれることがあると言う。
 
そんな話がいくつも記されているのだが、その話を信じるか信じないかは読者の受け取り方次第なのだが、私は常々言うのだが、物事はそれを発するものよりそれを「受け取る」ものの影響を多く受ける。
 
しかし、残念ながらそれに気が付く人はほとんどいない。
 
それをこの話に当てはめれば、それを体験した人にとっては、それは間違いなく「事実」として存在したということになる。
 
しかし、そんな話を信じない人にとってはそれは「存在しない」事になる。
 
 
 
私はそういう意味で「信じる力」がある人には、神は力を授けるが、信じない人には力となることは無いということに、最近確信を持った。
 
それは「意識の高さ」として現れ、言い方を変えると「波動の高さ」ともいえる。
 
実は世の中には物質も時間も距離も存在せず、あるのは「波動」だけだと言われる。
 
その波動の世界において、自らの「波動を上げる」事の意味を理解できる人は、まだまだ少ない・・・・
 
(資)文化財復元センター  おおくま
 
 
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