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「生命の實相・第7巻■生活編  谷口雅春」その1
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この本は先日取り上げた生命の實相シリーズの第7巻目である。
 
私は葉室頼昭さんの肺結核が消える元になった本を、読んでみたいと思いAmazonで調べたが判らなかった。
 
しかし後日ネット上の質問に、どなたかがそれは第7巻だと書かれていた。
それを信じて買ったのだが・・・
 
著者の谷口雅春氏は「生長の家」創始者だとのことだが、もともと「生長の家」とは彼の自費出版の雑誌の名前だと言う。
つまり宗教として最初から教団を造らず、彼の生活は会社員としての収入で支え、一切その雑誌の収益で生活することを考えなかったと言う。
 
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わたしは前々から人類のために光明となるような雑誌を出したいいう念願をもっていた。
自分のような不健康な虚弱な体質では、一日八時間ないし十時間会社の仕事にしばられていてはその仕事だけで勢力が一杯だろう、とても『生長の家』のような雑誌を書く余裕はないだろうと思っていた。
それなら最初から自分が会社をやめて専心『生長の家』のために働いたらどうなるだろうか。
こういう雑誌はその収益によって自分が生活をたてねばならぬようになるとき、それは雑誌業とにり、出版業となって、売らんがための雑誌になってしまい、心を浄める中心になるという、最も大切なこの種の雑誌の使命は失われてしまうのである。
だから『生長の家』のような事業を始めるには、収益ということは全然度外視して、事業全体を神と隣人とへの捧げ物としなければ、その使命をまっとうすることができないのである。
すべてを捧げるには最低限度の衣食住費さえもその事業からえられると予想してはならぬのである。
これを予想するとき、すべての仕事は神と隣人への「捧げ物」とならず「商売」になってしまうのである。
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どうだろう、ここまで貴方は考えられるだろうか?
 
彼は先日の第15巻の中の関係者との話の中にも出てくるが、関係者は『生長の家』に専任していただきたいと彼に言っても、彼はこの考え方を曲げなかったようである。
 
ここまで自分を犠牲にして、他人のために「奉仕」できる人が、果たして現在何人いるだろうか?
 
 
前回の第15巻を私に送ってくれた人は、彼は「我々は神の子である」そして「私は神の愛を伝えるラッパである」」という。
 
 
確かに彼の著書には、我々は神の子であり、病気は自分の気持ちが創りだしたものであり、信念を持ては病気は消えるし、我々に不可能はないと、全編に貫かれている。
 
私が「先人の思い」こそ残すべきもので、我々はもっと先人に「畏敬の念」を持つべきだと言ってきた。
この考えは、いつの間にか私の中にあったもの・・・・
すなわち「内なる神」の考えなのである。
 
どんな人でも、「先祖」があり、どんな組織にでも「創始者」という存在がある。
それがまさに先人であり、先人が苦労をして現在の貴方たちを支えている。
 
その支えがあるから、貴方たちはぬくぬくと暮らし、三度の飯が食える。
その事に対する「感謝」の気持ちがあるなら、やはり「先人の思い」をあなたも受け継ぎ、そしてそれを次の世代に受け渡す「義務」がある。
 
その「先人の思い」は、貴方が貰ったものではなく、貴方はただ「預かっている」に過ぎない。
その預かりものの「先人の思い」を貴方の代で終わらせる「権利」は貴方にはないのである。
貴方が幸せに暮らせるのも、先人の努力有っての事、それを受け継ぎ、さらにプラスして次の世代に受け渡すのは、「義務」であることを忘れてはならないと思う。
 
 
この第7巻は、どうも葉室頼昭さんが読んだ本ではない様である。
この巻はどちらかというとまさに谷口雅春氏のラッパが冴えわたり、「人生の進軍ラッパ」が鳴り響いている。
元気はつらつにはなるが、死にかけていた葉室頼昭さんがこの本を読んでいたら・・・・
逆に耐えきれなかったように思う。
 
しかし、私はがっかりしたわけではなく
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諸君よ、見えざる親切をすることを惜しいと思うな。
それは天に宝を積むことだ。
天に宝を積んである人は、自身がもし困るようなことがあれば必ず誰かが助けに来るものだ。
しかし自分が困るときに助けてもらいたいと思って他に親切をするな。
それは消極的な考え方だ。困ることが来るかもしれぬと予想することは、「困る時」をよぶことになるのだ。
与えるときは、ただ与える喜びのために与えよ。
与えるほど自分は成長するところの「生命」だという自覚を持ちながら与えよ。
与えることによって何物も減るものではないという信念によって与えよ。
これが人の生長の秘訣だ。
 
************中略***************
 
常に心がけて、接する人々を少しでも喜ばすような行為をなせよ。一足の下駄をそろえるのも喜びであれば、そろえられる親切を受けるのも喜びである。
一枚のチリ紙がなくて困っている人間を見いだしたら一枚のチリ紙を与えよ。
下駄の鼻緒が切れて困っている人を見出したら、一すじの紐を与えよ。
にわか雨に困っている人には自分の傘の半分をその人に譲れ。
苦しんでいる人には親切な言葉をかけて力を与えよ。
少しでも接する人々の心を光明で輝くように導け。
失望している人には希望の言葉を投げかけよ。
会う人ごとに好意と親切とを撒いて歩け。
常に好意と微笑、親切の表情を撒いて歩け。
朗らかに相手の長所をほめよ。 これらは相手を幸福にするだけではなく、自分自身を幸福にする道であるのだ。
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この言葉を我々は真に理解できるだろうか?
我々は自分を取り巻く「現実」という名の「」にまどわかされ、本当に大切なものが見えなくなってしまった。
彼が言っていることは「神の子」として当然のことである。
 
私はこの言葉を真摯に受け止めたいと思う。
 
(資)文化財復元センター  おおくま

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