「第8のチャクラ」キャロライン・メイス著 その2
この著者が凄いと思うのは、ベストセラー作家と言われるマリアン・ウィリアムソンは「奇跡のコース」と言う技術をマスターして、それについての補佐的な解説書を書いていると思われるが、しかし言い方を変えれば「奇跡のコース」がなければ、彼女は果たしてどれだけすばらしい文章を書けるか?
そう考えたとき、この著者であるキャロライン・メイスは、自分に与えられた才能「直観力」を活かし、見本のないところから、自分の試行錯誤と経験で、自分にしかできないものを創り上げたと思う。
これは私の「画像による文化財復元」も同じことが言えるのだが、十数年前に導かれるようにしてこの仕事を始めたが、もともと写真が専門であり、コンピューターやあるいは文化財と言う分野は素人と同じで、当然私が気が付くということは、それ以前に先駆者と言うべき専門家が居るはずなので、ネットを調べれば「前例」があるはず・・・・
そう思ったが、油絵の修復や埋蔵文化財の木簡の文字の解読などの赤外線の利用例はあっても、それをもとに当時の姿を復元したと言う前例は皆無であった。
そんな時点から、独りで試行錯誤をしながら、この技術を創り上げた。
この作者も同じ想いだと思う。
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聖なる契りにも選択の要素があるが、これはどういうものか、判りやすい身近な例をあげてみる。
あなたが生まれる前に、今生ではナイフを上手に使うことを学ぶと承諾していたと想像してみよう。
生れてくる前に、あなたのガイドが知恵を授けてくれる。
「刃をつかもうとしたら、手が切れ血が流れ、傷が癒えるまで長い時間がかかります。
そうすると、あなたはナイフに対して怒りの感情を抱き、ほかの人を傷つけるための武器として使うようになってしまうでしょう。
でも、まず柄の方をつかめば、これを道具として見ることができます。
シェフ、彫刻家、デザイナー、外科医として、すばらしい創造に使えるでしょう。
どちらを選ぼうと、あなたが天界に戻ってきたときには、ナイフの使い方を覚えてきているのです。
どうやって学んでくるかの選択、そのためにどれほどの苦しみを体験するかの選択は、文字どおりにも、象徴的にもあなたの手にあるのです。」
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そして
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叡智を通して学ぶか、災いを通して学ぶかは、自分の選択次第だ。
例えば、許すと言う行為にはいかに力があるかを学ぶことが不可欠だとしよう。
許す心を学ぶには、許す相手が必要だから、いろいろプレッシャーをかけた両親やあなたを解雇した上司を許さなければならないかもしれない。
このような人たちは、人生の中で、あなた自身が考えて解明しなくてはならない役割を演じているのだ。
彼らとの付き合いを通して、人生の目的について学ぶようになっているのである。
許すかどうかは、明確に意識して選択しなければならない。
許すということは、反感をもち続けるよりはるかに難題だが、この難しい方の道こそ、心の平穏と霊性の道の叡智をもたらしてくれる。
「自分が正しい」と憤り、正義のためだと反感をもつことは気持ちいいかもしれないが、長い目で見ると大きな犠牲を払うことになる。
身体、精神、そして感情面での健康に害をもたらすのだ。
親や上司など、自分が敵と考える人たちを許さない選択をすると、まわりの人々や世界から孤立してしまう。
不健康な「気」に自分を追い込むことになり、それは皮肉にも、病気その他の人生の状況を通じて、ほかの人間に依存するという結果を導く。
許しの心のような霊性の道の課題を拒むのは痛みを伴う学びの方法だか、どう転んでも学ぶことは確かなのだ。
学ぶべきことを拒絶すれば、おやじ状況に何度も繰り返しであうことだろう。
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赤字にしてあるのは、私自身が正義感が強いために、間違いを許せない面があり、自分は間違っていないとずっと思続けてきたから、自分自身に対する戒めともいえる。
特に他の本にもあるのだが、人は自分が正しいといずれの人も思い込んでいる。
だから自分と違う考えを『非常識』と決めつけるのだが、しかしそういう人には自覚がない。
自覚がないものは特に神さまでも救いようがないらしい・・・
(資)文化財復元センター おおくま